マタイによる福音書20章29節から34節 私たちが神に本当にして欲しい事とは何か
日々の暮らしの中で私たちは神様に何をして欲しいと思っているのでしょうか。
年金の不正管理や大臣や役人の不正を正す事なのでしょうか。
良い教育を受けてすべての人がみんな知識や技術の豊かな人たちになっていくことでしょうか。
病気の火や障碍のある人が癒されることでしょうか。
経済的に貧しい人が助けられることでしょうか。
高齢者や病気の人や障碍のある人のサービスを充実することなのでしょうか。
戦争や犯罪がなくなる平和な世界の実現でしょうか。
私たちはそれぞれ、こうなるといいなあと思いながら、暮らしていることだと思います。
ご利益を求める私自身、上げたら切がないですね。仕事もしっかりできるようになりたい、日々の暮らしに困らないように経済を充たして欲しい、社会的に認められたい、人から信用されたい、いい人だと思われたい、立派な牧師だと思われたい、家事を手伝ってくれるような人が与えられたい、礼拝の手伝いをしてくれる人が欲しい、こまいことを言ったら、部屋を片付けたい、片付ける気力が欲しい、雑用を片付ける事ができるようになりたい、病気になりたくない、などなど、いろいろな欲求があるのです。
さて、本日の聖書の箇所を読みますと、私が、本当に欲している物を、根源的に教えてくれているところだと思うのです。
ここの聖書を読むとき、自分はどこに位置するかということになりますが、私は大勢の群集の一人であると考えた方がいいと思います。そして、私自身はイエスが自分達によいことをしてくれるリーダーだと思って期待して後をくっついて行っている一人として読んでいきたいと思います。
そして、イエスは今、エリコの町からエルサレムへ向かって歩いていましたが、イエスの心中は十字架にかかって死に、復活するという歩みでした。さらに、聖書からみると、昇天して、天に昇り、最終的には、裁きを通して、天の国を実現して、すべての人を救うという歩みだったのです。
イエスを先頭に弟子たちを始め多くの群衆がイエスに従って行きます。その群衆は、イエスを純粋に信じて従っていた人ばかりかと言うと、そうではなかったようにおもいます。その大勢の人たちはイエスを本当に理解していた人たちではなかったと思います。弟子たちでさえ、イエスが王になったときには、自分を側近にしてほしいと思うような名誉欲に駆られた人たちでした。もちろん中には救い主と信じて従った人もいたでしょう。何か自分に良い事をしてくれる人と信じて従っていた人もいたでしょう。皆が付いているから自分も一緒に行ってみようと思ったひとも、あるいは、中には、イエスに敵意を持って、すきあれば命を狙うというような人もいたかもしれません。とにかく、ここでは信じるものも信じないものも、多様な人が大勢イエスに従って行ったという出来事が起こっていたのだと思います。
さて、ここでの出来事ですが、2人の盲人が道端に座っていました。道端に座っていたとありますから、おそらく、物乞いをしていたのだと思います。その盲人の2人がイエスがお通りだと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫びました。おそらくこの2人の盲人はイエスのうわさを聴いていたのでしょう。虐げられてる人や貧しい人たちや社会的に排除されている方々を尊重し、時には癒し、時には話を聞き、時には奇跡を起こし、5000人に食料を提供したりしていたと口伝えに聴いていたのではないかと思います。そして、彼らは藁をもすがる思いで、イエスをダビデの子、ユダヤの救い主だと信じたのだと思います。いえ、正確に言えば、自分を逆境の苦しみから救い出してくれる人だと信じたのだと思います。
群集はしかりつけて黙らせようとしました。物乞いに関わっていたくないというのでしょうか。気が触れているとでも思ったのでしょうか。自分たちとは関係ないと思ったのでしょうか。盲人の苦しみを理解できないでいたのでしょうか。聖書のこの記事をみると、なんて、無責任というか、残酷な群集だと思ってしまいます。情けも憐れみもないような群集だったのです。
そこに自分がいると私自身は思います。残酷な群集を形作る社会に、自分は生きている。そして、その群集を構成している一人に自分がいるのだと。
しかし、その群集がそうであるにも関わらず、盲人は、さらに大きな声で叫びます。「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい」と叫びます。
イエスは、立ち止まり、二人を呼んで、「何をして欲しいのか」と言われました。二人は、「主よ、目を開けて頂きたいのです」と言いました。するとイエスは深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちは直ぐ見えるようになり、イエスに従うようになったと記されています。
ここで起こった出来事は、奇跡に満ちています。
盲人の目が癒されたという奇跡。彼らの願いが叶えられたという奇跡。もちろんそういうこともあります。
そして、その盲人が、イエスに従ったという、奇跡です。
さて、この盲人、なぜ、イエスに従ったのでしょうか?
目が開けられたので嬉しくなったからでしょうか。
それもあるかもしれませんが、聖書がいいたいことはそうなのでしょうか。
聖書が言いたいことは、目が開かれたということよりも、イエスに従ったということを言いたいのだと思います。イエスに従ったと言う、そこが重要だと思います。ここに人間の求める、本質が隠されているのだと思います。イエスは盲人の2人の『憐れんで下さい、目を開け欲しい』という言葉を聴いてその通りにされました。イエスは深く憐れんだと書かれています。この深く憐れむと言う言葉は、原語からすると、ただ、かわいそうだと思うことではなくて、内臓がよじれる痛みを伴う、はらわたがよじれるような憐れみ、苦しみから救いたいと言う強烈な思いを意味しているとされています。イエスのこの深い憐れみが、盲人に与えられていたのです。おそらくこの思いが盲人に伝わったのでしょう。盲人は自分の本当に求めているのは、この深い憐れみなのだと気付いたのではないでしょうか。そして、イエスに従って行った。イエスに従って行ったのは、目が見えるようになった、感謝の御礼としてではなく、深く憐れんでいただいたことに、何かしら、自分の全人生をかけてもいいという、強い、深い、信頼感が生れたからだと思います。盲人2人は、治してもらった御礼と言う義務感ではなく、イエスの深い憐れみに頼った生き方をしていこうと喜んで決意したという出来事を、奇跡を、ここの聖書の箇所は示していると思います。
おそらく人間はすべて、日常、盲人のように、不自由をたくさん抱えて生きている者です。
始めに話しましたように、こまごました日常の事柄から世界平和に至るまで、いろいろな願いや希望を持って暮らしています。そして、それが実現されない事に不満や不平や不安を抱えながら暮らすものです。
また、群集も同様であったと思います。群衆の中にいる私は、イエスを信じるといいながらも、盲人のような物乞いをするような人とはあまり関わりたくないと思うような冷たい人間です。
しかし、イエスをリーダーとして暮らしていくとき、群衆は、イエスの盲人への深い憐れみと癒しを経験してしまいます。まさに神の奇跡の中に関係つけられてしまいます。イエスをリーダーとして従って歩まされるとき(これ自体奇跡なのですが)、イエスの奇跡の業に巻き込まれていくことが起こってしまうということを、本日の聖書の箇所は私に示してくれているようにおもいます。
イエスはどこに向かって進んでいるのでしょうか。十字架と復活、昇天と天の国の実現です。
そしてイエスに従って歩んでいる群衆とは誰の事でしょうか。
弟子たちでしょう。弟子たちの家族でしょう。癒された盲人でしょう。
さらにイエスを知った人達、イエスから非難されるパリサイ派やサドカイ派の律法学者、ローマの兵士や議員、皇帝、イエスに敵対し、十字架につけた人々、イエスの十字架など見向きもしない、無関心な人々、イエスの歩む方向とは全く逆に進んでいる人々、その他異邦人に至るまで、全人類がイエスに従っているのではないでしょうか。わたしにはこの光景が見えるように思います。そして、そういう現実の中で盲人の目が見えるようになり、イエスに従って歩むの奇跡を聖書から知るとき、今、天の国、神の国を垣間見る事が出来るような思いにさせられています。
そして、今、不平、不満、不安のたくさんある現実に生きているこのときも、信仰によって気付きさえすれば、天の国、神の国にいることができるように思うのです。
信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る、と聖書にあります。
世の中が、私がどんなに冷たく、残酷で、破壊的で、自己中心であろうとも、イエスが聖霊となっている今、私達群衆のリーダーになっている(これが、愛でしょう)、そのことに気付きさえすれば、(これを信仰といいましょう)、私達のリーダーはイエスだと気付きさえすれば、自分の抱える不満や不平や不安は癒され、消え去り、(これを希望といいましょう)、自分の歩んでいる道が誤りだと悔い改め、イエスに従う道を歩み続けていこうとすることが、自分の求める事であると言うことを知ることができるように思います。
人は深い憐れみを与えてくれる、イエスに従いたい、と本当は思っているのだと思います。
自分では自分が何をするべきか分からないものです。イエスの深い憐れみを本当は求めているのに、違った事を求めてしまっているのでしょう。お金とか支配力とか名誉とかを。
私達が本当に求めているのは、イエスの深い憐れみです。イエスに従う事です。イエスに従うと言う事は、イエスの一方的な深い憐れみを、ただただ、感謝して受けていく事です。
イエスの深い憐れみとは、イエスが十字架につき我々の罪をすべて購ったということ、復活して、昇天して、イエスが我々すべての人類に天の国を永遠の命を与えて下さる事、そして、生きている今でも、天の国を与えて下さっているということでしょう。
この恵みを、私達は本当は求めているおだと思います。
神様は私達は本当に求めている者をご存知で、それをすでに与えられている方です。イエス信じまいが、信じようが、ご利益的であろうがなかろうが、愛があろうが無かろうが、残酷であろうがなかろうが、イエスは私達すべてを深い憐れみをもって、天の国に導きいてくださっているかたです。何という奇跡!
私はそのことに気付いたとき、信じていなかった罪、ご利益的で、愛が無く、冷たく、残酷な罪を悔い改め、感謝と喜びを与えられ、他者を愛そう、イエスのように憐れみ深くなっていこう、イエスの道に従って行こうという意志が与えられていくように思います。
私達が本当に神様にして欲しいと思っていること、それは、深く憐んでもらうことだということを覚え、すでに、もう、憐れんで下さっているイエスに従って行きたいと思います。