レビ記27章1-34節(1-8節)
ローマの信徒への手紙12章1-2節
説教 平和の共同体の心得「神に捧げる」297 409 512

レビ記はバビロン捕囚されているあたり紀元前6世紀頃に編集されたらしいです。つまり、イスラエルの民が国家を失った時期、自分たちの神が創ったと思っていた国家がバビロンに滅ぼされ、拠り所を失った時に、多くの人々の言い伝えを編集したものらしいです。当時の人々はなぜ私たちの神は我々を苦しめるのだろう、という疑問と共に、自分たちがいかに神の御心に従って来なかったかを徹底的に反省したのだと思います。そして、数々の言い伝えの中からこれは重要だと思われたのをピックアップしていったのだと思います。それが、十戒となったり、こまごました規定になっていったのだと思われます。本日の27章では神様への捧げ物について書かれています。自分を捧げる代わりに銀で捧げたり、家畜、家屋、畑を捧げる規定が書かれています。また、レビ記27章29節には、「特に、永久に神に奉納された奉納物が人である場合はその人は買い戻すことはできず、必ず殺されなければならない」とあります。いくらなんでも、殺してはいけないのですが(十戒違反)、ここは、言い伝えの編集ですから、おそらく、そのような言い伝えがあったことでしょう(古代の宗教には人が生贄とされることがあちこちで見られるようです)。これは死すまでお捧げ、奉仕するという、意味あいで考えた方がよさそうです。レビ記編集者たちは、神に捧げたり、俗なことをしたりする人を反省材料として考えたのではないでしょうか?神に捧げると言っていながら、また、別のところでは自分の欲望丸出しの暮らしをしていた人が多くいたような場合、それはまずい、神に捧げると誓ったものは生涯そうしないといけない、欲望の暮らしにも戻りたいなら、その時は、命を絶つ、というような言い伝えが編集されていったと思われます。永久に神に捧げる人については、今でいう神父やシスター、牧師などをいうとも考えられます。

本日の新約聖書ローマの信徒への手紙には以下のように書いてあります。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、なかたがたのなすべき礼拝です。」パウロの勧めですが、いけにえになって死んでしまうのではなく、「生きるいけにえ」になることです。「いけるいけにえ」とは何でしょう。愛すること、虐げられたている方々を解放すること、病や苦しみにある人の癒しの業に加わる、平和を実現することなど、人がより良く生きることように配慮することだと思われます。そして、そういうことが礼拝なのだとさえ言われています。

過去を反省するとき、あーすればよあった、こーすればよかった、と思うことがたくさんあります。神によって建てられた自分たちの国をバビロンに奪われ、捕虜となったイスラエル人もあーすればよかった、こーすればよかったとあれこれ思っていたででしょう。そうしてできたのが、レビ記も含め、旧約聖書だったのではないのでしょうか?

神様は私たちを生かす神です。神への捧げ物は、生きた自分のままで、その場、その場で、愛すること、虐げられている方々を解放すること、病や苦しみにある人の癒しの業に加わること、平和を実現することなど、人がより良く生きることように配慮することなのでしょう。

皆様の祝福をお祈りいたします。