レビ記 第23章1―44節(朗読は1-8節)
マルコによる福音書 2章23―28節
平和の共同体の心得 祝祭日

本日のレビ記には主の祝日について書かれています。
週毎7日に1日ある安息日、年に一度の過ぎ越し祭、除酵祭、仮庵祭について書かれています。そして、これらの安息日や祭りについて、「どこに住もうとも、世々にわたって守るべき不変の定めである」という主の言葉が添えられています。これは、信仰はどこにいようが成立するということを意味しているように思います。また、安息日というのはどの祭りにもつきものです。安息日をなぜこんなに強調するのでしょうか?それはもしかするとエジプトで重労働を強いられたときのエジプトに対するストライキだったのかもしれません。休ませてくれ、さもないと、体は持たず、仕事ができなくなる。イスラエルの民にとってもエジプトにとっても不利益になることだから、休ませてくれという民からの行動だったのかもしれません。それが神様の指示であったと聖書はいっていますが。また、このレビ記には祭りなどに捧げ物として捧げたり、食料にする穀物は収穫するとき全部取らずに、貧しい人たちや寄留者のために取っておくようにという規定がありました。

さて、マルコによる福音書の本日の箇所は、イエスとイエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいるのをみて、ファリサイ派というユダヤ教の一派の人々が「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのですか」と言う場面がです。イエスは「安息日は人の為に定められたのだ」と言い返します。レビ記にも、貧しい人や寄留者の為に穀物は全部とらずに畑に少し残すことが書かれていますし、麦の穂を取ることは貧しい人たちにとっては食料を得る手段でもありました。

安息日というのは、重労働を強いるエジプトに対するストライキだとすると、「安息日は人の為に定められた」ということがはっきりします。彼らは安息日がなければ生きていけなかったと思います。安息日なく働かされて死んでいった方々もいたことでしょう。実に安息日は人が生き、さらに、雇用主にも有利に働くような恵みの制度なのかもしれません。

安息日や祝日は私たちが生きるために必要な時であると改めて思いました。



1月14日過ぎ越し
1月15日除酵祭:この日から7日間酵母を入れないパンを食べる。この日は聖なる集会を開く。働かない。7日目も聖なる集会を開く。仕事はしない。

穀物の捧げる:新穀の捧げ物→「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで借りつくしてはならない。貧しいものや寄留者のたえに残しておきなさい。わたしはあななたちの神、主である。」(22節)

7月10日贖罪日 聖なる集会 苦行をし、燃やして捧げる捧げ物を携える。仕事をせず、贖いの儀式をする。あなたたちはいかなる仕事をしてはならない。これは、あなたがたがどこに住もうとも、世々にわたって守るべき不変の定めである」(31節)

7月15日、7日間仮庵際。安息日を守る。エジプトから導きだしたとき、仮庵に住まわせたから。