レビ記22章1-33節(朗読31-33)、ヨハネの福音書1章1-5節
平和の共同体の心得「神の正体はことば?」

レビ記22章は、神様への捧げ物について、「聖なるものであるから、捧げる人は皮膚病や漏出のあるものは清くなるまで捧げ物に障ってはいけない。死体に触れた者や、精の漏出があったり、人を穢れさせる爬虫類に触った者、人を穢れさせる者に触れた者は、その穢れの種類を問わず、すべて、その日の夕方まで穢れている。日没になれば彼は清くなり、それ以後は聖なる捧げ物を食べることができる」というようにあります。祭司の家族になって、捧げ物を食することに加わるか、加われないかは規定がありました。捧げ物自体では傷があったり、こぶがあったり、できもの、疥癬などあるもの、発育不全のもの、睾丸が押しつぶされたり、破れたり、引き裂かれたり、切り取られたりした動物を捧げてはならないとしていました。これは捧げ物が聖別されていることを示しています。何と聖別されたかというと、おそらく、このレビ記が書かれたであろう、カナンの地方の宗教との聖別だったと思われます。

聖書は創世記からほかの宗教と聖別しているように思います。6日で宇宙と人間を作ったという記述は自然崇拝や人間崇拝をする信仰をこけにしたような記述です。6日で宇宙が自然が人間がすべて作られるわけがない。しかし、聖書は言う。神は6日で天と地を創造された。7日目には休んだ、となっています。この聖書の神
と言うのは、実は、自分の考えられる神とは異なっているんだということを、表しているのではないでしょうか。聖別、というのは、自分たちと関わっている、神を聖別しているのだと思います。偶像ではない。動物でもない。自然でもない。では、何?と言った時、ヨハネの福音書の1章1節「ことばは神であった」と告白しています。神の正体がここに表されてるのです。神の言葉、これが、神の正体なのでしょうか?聖書にはそれ以上のことは書いてはいませんが、この神はことばである、ということが、大きくほかの神々とは異なる点なのではないでしょうか。

レビ記22章33節には「わたしはあなた方の神になるために、エジプトから導き出した」と語っています。「神」の代わりに「ことば」を入れてみてください。「わたしはあなたのことばになるために、エジプトから導き出した」。そう言われたら、私たちは何を話したらよいのでしょうか?救い、愛、正義とか、神のことばを語るべきなのでしょうね。