聖書 レビ記1章1~17節 ローマの信徒への手紙12章1節 説教 平和の共同体の心得「神への捧げもの」 99、512、515 レビ記は私事ですが、あまり読んでいない箇所です(牧師失格)。ですから、このレビ記を読んでいく中で、私自身勉強していくことにしました。手元にある注解書によると「レビ」は「レビ人」の「レビ」で、これは祭司のもとにあって、幕屋に仕える「レビ人」のことのそうです。祭司の部下というところでしょうか。しかし、ここのレビ記は「レビ人」に関する記録が書かれているわけではないそうです。実際「レビ人」という言葉は25章32-34節以外には出てこないとのこと。レビ記の内容は祭司及び信徒が幕屋において主にいかに犠牲を捧げるか、聖なる神の御前にいかに身を清く保つか、また、神の聖なる民としていかに行動すべきかについての律法集。従ってこの書は、イスラエルの民全体のための書ですが、中でも民を指導し、教育する立場にある祭司のための手引きと説明されているとのことです。(日本基督教団出版局 新共同訳 旧約聖書注解Ⅰp201参照) さて、レビ記は一見、細かく具体的な規定だけが並び、つまらないように思いますが、レビ記の19章18節には、イエスが「律法で一番大切なのは、自分を愛するように隣人を愛することだ」と言った箇所も入っています。レビ記の規定は神から与えられた規定であることを考えまきすと、私たちがなすべき事柄でもあると思われます。 本日のレビ記には、「焼き尽くす捧げ物」とあります。そして、「これを捧げるときは、牛、または羊を捧げなさい」とあり、「これを捧げるときには」と断ってます。ここから、焼き尽くす捧げ物は、義務ではなく、自由意志で捧げることを前提としているように思われます。そして、捧げ物のさまざまな物については7章まで書かれています。穀物の捧げ物、和解の捧げ物、贖罪の捧げ物、賠償の捧げ物が記されています。この中で目を見張る捧げ物が、「贖罪の捧げ物」です。これがあるとどうなるか。罪を償うことができるのです。おそらく十戒を破ったとしても捧げ物を動物で捧げることによって許されるのです。これは、罪深い人間にとっては救いだったと思います。罪から免除方法もちんと規定上に与えていたのです。死刑などを含む刑罰ははこれで無くなったとも思われます。みな保釈金のような償いですむようになったということでしょう。そして、ここには、軍隊の規定がないことも上げておきたいと思います。 さて、新約の時代になるとどうなのでしょうか?おそらく人々は贖罪の捧げ物をしなくなっていったのではないでしょうか?罪の犯しぱなっしになったのではないでしょうか?自分の罪が何だかも分からない、そういう人たちがこの本日のレビ記の言い伝えを引き伝えてきたユダヤ人だったのかもしれません。 そういう時代、イエスは罪の贖いの捧げ物として、自分自身の命を捧げました 。イエスは自ら祭壇に上がったのではありませんが、それを自覚されていました。主の晩餐(聖餐式)はそイエスが人間の罪の贖いとななるため、十字架につけられたことを意味する儀式です。従って、もう、わたしたちは贖罪の捧げ物なくして、罪を許されるようになりました。ユダヤ人にとってはこれは信じがたいことになりました。 さて、罪許された私たちの暮らしでは我々は何をしていけばよいのでしょうか? 今日の新約聖書のローマの信徒への手紙では、「あなた方の体を生きる聖なる供え物として捧げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」と言います。「聖なる供え物」とはどういうことでしょうか? 私はこういうときにはいつも上げる箇所があります。ガラティア信徒への手紙5章22節。「これに対して霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、こえらの類を禁じる掟はありません」。「聖なる供え物」とはこの言葉に関係することなのではないか思います。 神捧げる捧げ物、それは、献金や物、教会活動の奉仕をを教会に捧げるだけではなく、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制のような聖霊の結ぶ実をそれぞれのできる範囲で具体的にこの地に実らしていくことなのでしょう。そして、驚くなかれ、現実にそういう人って家族や職場や地域社会、教会も含めてですが、私の周りにいらっしゃるように思います。クリスチャンの有無関係なく、です。私自身の自分の暮らしを振り返るととてもとても上のような霊の実を結ぶにはいたっていませんが、このような神の捧げ物となっていらっしゃる周囲の方々に見習い、願わくば神の憐れみにより、私もその捧げ物にさせていただきたいと思っています。 皆様の祝福をお祈りします。