旧約聖書: レビ記 第17章1―16節 新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章53―58節 神の命による贖い 聖書を読んでいますと、神様ってこういう方なんだという発見がありますね。聖書は人類の太古からの神発見についての文献集とでもいってよいのではないでしょうか。いにしえからの人々は暮らしの中で神ってこういう方だと分かった、見出したという記録が聖書なのだと思います。その蓄積が聖書であるということでしょう。そして教会は神発見の歴史を受け継ぐ場となっているのではないかとも思うのです。神は人間が発見するものだと思います。 本日はペンテコステ礼拝です。聖霊が降臨してイエスの証を始めること至った時を記念する日でここから教会が誕生した日とされています。教会が誕生したとしてキリスト教会では位置づけています。救い主がイエスであるという宣教、伝道を始めた日となるのです。しかし、聖書の記述をみますと、当時のユダヤ教の本来あるべき宗教活動が始まった日ということになりましょう。聖霊によって当時のユダヤ教徒の一部は、イエスが救い主であることが分かり、それを伝えることが可能となるのです。聖霊によって何が本当の救いかという事が分かったのです。そして、彼らは当初は、イエスが救い主だというということをユダヤ教徒として伝えようとしたのだと思います。しかし、それはキリスト教とだんだん呼ばれるようになったのでした。彼らは新興宗教を起こしたのではありません。キリスト教を始めたわけでもありません。救い主イエスをユダヤ教徒のままで伝えていこうとした、これが、聖霊降臨によってなされた出来事です。 聖霊は真理を悟らせる(ヨハネ福音書16:13)と聖書にあります。 ペンテコステの出来事は真理を悟った出来事でもあったのでしょう。 最近、聖書学者の中に、贖いと言う視点で聖書を読み解いてみることも重要ではないかと語る人達がおります。旧新約聖書には一貫して神の贖いの業が示されているというのです。 本日は、神の命による購いと題してお話しさせていただきたいと思っています。 レビ記17章から26章は神聖法集というタイトルがつけられています。 ここには、人々が聖なる民になるための、日常の生活上の決まりが事細かに書かれています。17章には2つの決まりが書かれています。一つは、捧げものを捧げる場所は幕屋であること、2つ目は、血を飲んではいけない(11節ー12節)ということです。 人は罪を犯します。その贖いをどうすべきか、という問題を聖書は問います。 その問いに対し、旧約聖書では牛や羊や山羊などの動物の命を捧げて罪赦されることとされました。新約聖書では、神自身のイエスが命を捧げることで罪赦されるということになりました。旧約聖書では動物の血を飲んではいけないとされていました。これは血に命があると思われていたためだと考えられます。そして、この血の命が祭司の儀式を通過する中で人の命を罪から救ってくれると思っていたのでしょう。牛、羊や山羊というのは、食料として庶民には必要不可欠です。その動物の血に命の源(罪の赦し)があるということは、日常茶飯事の事柄の中に、罪の贖いということが重要だということも、聖書は語っているように思います。イザヤ書になれば、悪を行うことをやめ、善を学ぶこと、やもめや孤児の人権を守ることが、購いと同じような意味を有するという考えに変わっていきます。さらに新約聖書では、ヨハネによる福音書6章52-58節では、イエスは自分の血を飲め、と語ります。 イエスの血はイエスのこの世の力に屈服したときの、この支配者に負けた時のイエスの血の事を言っています。贖いの方法は変わりました。動物の命を神に捧げることから神の命を捧げることに変わりました。十字架の罪の購いということは、パウロが後から気が付いたことだったらしいです。真理は発見されていくものでもあることがここでも見て取れます。ペテンテコステのときにはイエスの十字架が罪の赦しに至る贖罪に当たるという事はわからなかったようです。救い主がイエスであるということを発見しましたが、罪の赦しには悔い改めと洗礼が条件となっていたようです(使徒言行録2:38)。聖書が語る人類の罪の贖いは人間の行為から神の行為へ変化したように捉えることができますが、これは、人間が神の救いの業について本来あるべき姿を発見してきた経緯でもあるとも思われます。キリスト教の宗教的特徴は、「罪の神の命による贖い」にあるのだと思います。 内村鑑三やカールバルト、古くはグレゴリオスと言う神学者はイエスの十字架が条件で罪の贖いがなされたと考えているようです。私もそうです。言語障害や意識障害の方々を見たとき、彼らに信仰を求めるのは無理です。イエスの十字架が罪の贖いを完成したと考えるとすっきりします。罪の贖いには悔い改めや洗礼など必要とする考え方も聖書から読み取ることもてきますが、「罪の神の命による贖い」も聖書から読み取ることができます。多様な思想を伺えます。 教会は聖書を紐解くことが重要になってきているように思います。聖書を読み、聖書から、実際の暮らしから、聖霊を受け、そして、神様の真理を共に発見していきましょう。聖霊降誕の日にユダヤ教徒の弟子たちが本当の救いに気づいたように、キリスト教の教会でもそうありたいものです。 皆様の祝福を祈ります。