聖書 列王記下8章1節~15節
マタイによる福音書2章13~23節
説教 平和の共同体の心得「枠を超える神の救い」
私は地域のリハビリテーション関係の自主的勉強会3つに参加させてもらっています。各職場の枠を越えてお互い勉強し合ったり、情報交換、意見交換をしたりします。医師も歯科医師もナースも歯科衛生士も保健師、栄養士も介護職種もリハビリ職種も、中には家族も当事者も利害を越えて純粋に勉強しに集まる集団です。私もその一員ですが、考えてみると素晴らしいことです。当地方は仙台や東京など大都市に比べれば僻地です。病院や介護、福祉事業所の規模は小さく1施設で人の様々な病気や障碍に対応できないことが多くあります。しかし、当地域にあるすべての施設が一つの総合体であると考えますとこれは大規模な医療、保健、介護、福祉、リハビリテーション、療育機関となり得るのです。枠を越えて病や障碍のある方のために連携することで一人ひとりのニーズに答えやすくなるのです。これは、誰から言われることではなく、気づいた方々の知恵であろうと思います。制度化されたシステムではありません。制度化されたシステムの隙間を補う知恵です。人の救いはそうした自分の職場などの枠を越えた活動によることが意外と多いのではないかと考えています。先日もある嚥下障碍のある方から相談を受け、勉強会に参加されている医師にお願いました。
さて、本日の聖書ですが、列王記下には、預言者エリシャに子どもを生き返らせてもらった母親の家族のことが記されています。エリシャが母親に飢饉が起こるから家族ごと住めるところに移るようにと言われました。そして、その家族が移った先がペリシテ人の地だったのです。なんと、異教の地です。しかし、そこでその家族は7年間飢饉を避けて暮らし、無事に北イスラエルに戻ってくることができました。また、エリシャは、異教の国アラム王ベン・ハダトが病気の時、治るかどうか主の御旨を尋ねて欲しいと依頼を受け、「治るが死ぬ」と預言を伝えます(「死」を預言するのでは冷たいようですが、ここは預言の依頼に対し、異教の人にでも応じたということに私は注目しました)。こういう内容から考えますと神の救いの業は異教かどうか関係なく生じるというように受け止めることが出来ます。本日の新約聖書、マタイによる福音書2章13節~23節には、生まれたイエスが、ユダヤの支配者ヘロデ王の暗殺から、エジプトに行って逃れることが記されています。エジプトも異教の地です。人の救いはユダヤ教のみの状態ではあり得ず、むしろ、ユダヤ教の枠を越えて異教も含めて考えるべきだということを聖書は示してくれているようです。
自分の宗教や思想や立場、住んでいる場所などの枠を越えた協働で、命の救いは成し遂げられる、こう、本日の聖書からメッセージを受けました。これを“愛”の業というのでしょう。私たちの地域の人々の職場や利害など枠を越えた協働も“愛”の業ということなのでしょう。
みなさまの祝福を祈ります。