聖書 列王記下6章1節~7章20節
ルカによる福音書2章8~21節
説教 平和の共同体の心得「ファンタジーによって知る」
聖書には多くのファンタジーが描かれているとする神学者や牧師や研究者がおります。極端なことを言いましたらでっち上げですね。天と地を神様が作ったとか、アダムとイブが人間の始祖だったとか、海が2つに分かれてそこを渡ったとか、その他、戦争の勝利、王国の樹立、捕囚されてもついには解放されるイスラエル、救い主イエスの誕生、病の癒し、死からの復活、永遠の命、新天新地の到来などこれらは人間の創作だという考え方があります。私も最近そういう立場になってきました。しかし、そういう風に読んでも、やはり、神様っているに違いないと益々思えてくるのです。今日はそのお話をさせて頂きます。
今日の聖書の個所も奇跡三昧、ファンタジーだらけです。
列王記下6章1節から7節の奇跡:エリシャたち預言者集団の住み家増改築中に鉄の斧が水に落ちた斧を浮き上がらせて取り上げた奇跡。
8節から14節:アラムの敵軍の攻めてくる道をすべて預言者エリシャが読み取り、まったくアラム軍は攻めることが出来なかったという奇跡。
15節から23節:アラムの圧倒的大軍をエリシャ一人の祈りで敵軍の目をくらませ、北イスラエルのサマリアに導くことができ、王が殺害するかとエリシャに問うも、エリシャ殺害を禁じ、なんと大宴会を開いてアラムに返したら、2度とアラムは北イスラエルに攻めて来なかったという奇跡。
21節から7章19節:北イスラエルに飢饉があり、物価が上がり、食べる物もなくなり、自分の子どもを食べるような悲惨が蔓延る国力が激減の時、アラム軍が攻めてくることを知った北イスラエルの王は預言者エリシャの為だとエリシャ殺害を企てるが、主がアラム軍を戦車の音や軍馬の音、大軍の音で驚かせ、陣営の物を全部おいて逃げ去ってしまった。イスラエルはそのアラム軍のおいて行った食料や金銀の財宝を手にしたという奇跡が描かれています。
新約聖書のルカ福音書の本日の個所は幻想的さが満点の個所で大好きな個所です。夜、羊飼いが羊の群れの番をしていると、主の天使が近づいてきて、主の栄光が周りを照らします。彼らは恐れますが、天使が言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を讃美して言うんです。
「いと高き所に栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」と
羊飼いたちはその後、実際に飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探しあて、天使たちが話してくれたことを人々に知らせました。人々は不思議思い、マリアはすべてを心に納めて、思いを巡らします。羊飼いたちは神を賛美し、帰っていきました。幼子は体内に宿る前から天使が命名していた「イエス」と名付けられました。
ある方々は言います。軍備のない世界、平和、弱者と強者が共に幸せに暮らす社会、すべての人が自由に喜んで暮らせる世、全人類の救い、これらは絵空事だと。実現不可能な理想でしかないと。お幸せな人が考える暇つぶしだと。現実は弱肉強食、弱い者は淘汰される厳しい社会だと。能力ある者こそ価値のある人間で能力のない人間は価値のない人間だ。これが人間社会だ。それについて私もその通りだと言いましょう。誰かが、この世に神などいないとも言うなら、私もそれに賛同もしましょう。
しかし、だから神など信じないとは私は思いません。この世に神はいないなら、あの世にいる神を私は信じているのではないかと思います。この世のものではない聖霊を信じているのではないかと思います。そういうことを考えているうちに、この世のものではない神についてこの世の人が知るには一つの方法として、聖書に多くあるファンタジーによるのかなって思いました。神はファンタジーによって人が知ることも出来、表現もでき、伝えることも出来るんじゃないかと最近思っています。
みなさまの祝福を祈ります。