聖書 列王記下3章1節~27節
   マルコによる福音書8章36節
説教 平和の共同体の心得「組織、領土より一人の命」

平和を考えるときに一番問題となることが、侵略されたらどうするかという問題です。それについては、「ん~…」と閉口してしまいますが、なんと、伊藤真と言う弁護士は、侵略されても非暴力で、国民一人ひとりの生命と財産は守れるというのです。彼は言います。「国家の組織を守るのではなく、この国に生活する市民一人ひとりの生命と財産が守られることを最終目標とします。」(伊藤真『けんぽう手習い塾第62回』)。「いわば、軍事侵攻に対しては白旗をあげて、外敵が占領を始める段階から非暴力による抵抗を開始して、これを撃退しようというものです。」伊藤真『けんぽう手習い塾第71回』)
具体例として以下の3つ(伊藤真『けんぽう手習い塾第71回』より)を上げています。
●ルール闘争(1923年)
 フランスとベルギーにルール地方を占領されたドイツは、鉄道員を中心に石炭の搬送を拒否するなどの抵抗を行いました。その結果、フランス、ベルギーは多くの要員を投入せざるを得なくなり、その占領政策に大きな打撃を与えることができました。
●ノルウェーの教員による抵抗運動とスポーツストライキ
 ノルウェーがナチに占領されたとき、ノルウェーの教員はファシズム的教育統制に不服従と非暴力の闘いで抵抗しました。その結果、ナチス傀儡政権はその後のファシズム国家建設の計画を断念せざるを得なくなりました。
●チェコ事件(1968年)
 ソ連軍を始めとするワルシャワ条約機構軍の侵攻に対してチェコスロバキアの民衆が団結して非暴力で抵抗しました。侵略に対しての軍事的抵抗はさしひかえ、そのかわりに占領された後に非暴力の抵抗によって占領の失敗を招こうとしました。ソ連軍兵士への市民による説得やパンフレット配布を始め、敵軍兵士の道義心に訴える心理作戦の結果、都市に入ったソ連軍兵士の士気は短期間で喪失していったのです。

このような方が生きていて、非暴力による防衛について訴えられていることに何とも救われた思いになり、嬉しくなりました。 

本日の列王記3章には異教の国モアブの王メシャが実行支配されていた(北)イスラエルへ反旗を翻したことが書かれています。イスラエルの王はユダの王、エドムの王と組み、エリシャの預言にも従い、モアブに攻め入り、メシャ王を絶体絶命になるまで追い込みました。メシャ王はその時、自分のあととりとなるはずの長男を城壁の上で焼き尽くす生贄として捧げたのです。すると、どうしたことか、イスラエルに対して主の激しい怒りが起こり、イスラエルは引き上げて自分の国に帰ったのです。ここの個所は聖書以外のメシャ碑文(ルーブル博物館保有)にもあり、史実です。さて、なぜ、イスラエルに主の怒りが起こったのでしょうか?異教のメシャ王に怒りがむけられるべきではないでしょうか?・・・ここには神の非戦と非暴力の意志が根底に隠れているように私は思います。そもそも戦争も暴力もいけないということなら、ここに出てくるモアブ、イスラエル、ユダ、エドムはみんな主の怒りを買うべき存在です。十戒違反という点では同罪です。

主の怒りが生じることで、モアブのイスラエルからの支配からの解放がなされ、独立王国として歩み始めました。もともとあった状態に戻したということです。戦争や暴力が始められる前の状態にも戻ったということでしょう。

 本日のマルコによる福音書8章36節には、「人は、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」というところです。戦争は領土とか組織を維持したり、拡大したりすることを目的にします。そうなると領土のための人、組織のための人となってしまい、人が戦争の道具と化してしまいます。人の命のための領土、組織でなくてはならないのにです。全世界も一人の命のためにあるとイエスは語っています。ならば、戦争などできません。暴力も奮えません。
命を奪ったり、傷つけたりはできなくなります。

 旧約聖書は一見裁きの出来事(病気や事故、自然災害、戦争で負ける等)が多く見られますが、非戦や非暴力の思想も散在しています。
私たちキリスト者は、この聖書の思想にも基づき、一人の命を大切にしていきたいと思います。組織や領土より一人の命、一人の命のための組織や領土、このような気持ちに本日の聖書を読んで導かれました。

みなさんの祝福を祈ります。