聖書 列王記下2章1節~25節
   マタイによる福音書16章13~20節
説教 平和の共同体の心得「イエスの教会」

最近、88歳の母親が風邪をこじらし、肺炎になり、5日間入院し、今自宅療養中です。対応に当たった私も尿路感染症になり、先週は病院通い。仕事も3週間休むことにしました。自分の生活基盤が崩れると生きていくのにすごく不安になりますね。あれこれ悩む訳です。仕事も牧師業もできなくなってしまう。どうしようと思い煩い、心身とも固まってしまったり、恐怖に襲われて気が狂いそうになりました。もう終わりだ。万事休す。そう思ったのです。

万事休す。そう思いながら、幾分鬱状態になり、心臓あたりに痛みを覚え、布団に入っていましたが、なかなか眠れず、悶々としながら、祈りながら時を過ごしました。すると、目を閉じている暗闇の前方に十字架につけられたイエスの姿が見えたのです。そして、自分もそこに招かれているとも思ったのです。「ああ、ついに、いかなくちゃいけないか」と再度、万事休すって思った時、ふと、こうも思いました。万事休すにならない人っていない、と言いますか、人は必ず死ぬんです。絶対。これだけは、死ぬことだけは、誰にでもいずれ来る運命です。だから、自分の死に対する準備をしておくということは、あながち、当を得ているんじゃないかと思いました。そして、妙にやる気が涌いてきたんです。生きる目標が出来たんです。それは、「終活」です。 

聖書をみますと、終活の書、とも読むことができます。旧約聖書は英語で the Old Testment、新約聖書はthe New Testmentで、Testmentという意味は「遺言」という意味です。

列王記にはイスラエル国家という生活基盤は結局最終的には滅んでしまう歴史的経過を記しながらも、そこに預言者が登場し、滅亡の原因を民の不信仰の問題として描いています。十戒やその時々の神の導きに従わなかったからだと語ります。国家が滅びても十戒をはじめとする神の言葉を民に残したのが旧約聖書ということになりましょう。列王記に出てくるもっとも代表的預言者はエリヤです。本日の列王記にはエリアから弟子エリシャへの世代交代がドラマチックに描かれています。エリヤは生きたまま天に上げられ、天からエリヤの外套だけが落ちてきました。それをエリシャが拾い、水を打つと水が左右に分かれ、渡ることができたと記されています。出エジプトで起こった神の奇跡と同様のことが生じたのです。エリシャはイスラエルの神の意志を取り次ぐ役割を与えられたということなのでしょう。さて、このエリシャは子どもたちに「はげ頭、上って行け」とからかわれる様なあまり恰好のいい人ではなかったようです。神の預言者はいつの時代でもこの世的な人気はないのかもしれません。

福音書にあっては、イエス自身が十字架上で死す出来事が描かれていますから、イエスの終活ととらえてもよいです。彼の終活は、人類の救いを完成することでした。本日のマタイによる福音書にはイエスが弟子たちに自分を人々が何と言っているかと尋ね、それに対して弟子たちの答えが描かれています。弟子たちは「『洗礼者ヨハネ』だと言う人も、『エリヤ』だと言う人もいます、ほかに『エレミヤ』だとか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。すると、イエスは「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と問います。すると、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエスはその回答に対し答えます。「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
ここではまるでペテロが神のごとくになるような、あるいは、彼のすることはなんでも神の業(天上でもつながれ、解かれる)ことのように受け止められます。ペテロという個人が神的権能をもつように受けとめわれます。そういう意味でローマカトリックでは初代教皇をペトロとしているようです。しかし、ここではそういうことをイエスが語っているとは思えません。イエスは「イエスの教会」が権能をもつと言っているのであって、ペトロに権能があるということではありません。また、ペトロがつなぐことは天でもつながれ、ペトロが解くことは天でも解かれるということは、イエスからペテロに授けられた「天の国の鍵」によるもので、これは「神の業」とか「聖霊の働き」によるものであるということを示していると私は受け止めています。それから、イエスは自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられました。おそらくこれはペトロの答えが、表面上の言葉としては遭っていたが、「メシア(油注がれた者、ギリシャ語のキリスト、いわゆる救い主)」の意味が、イエスの言う「メシア」とは異なっていたからでしょう。ペトロを始め、イエスの弟子たち、それからあらゆるユダヤ人は、この世に来る救い主を待ち望んでいました。それは、ユダヤの王として現れる軍事、政治、経済的、医療や福祉、教育、文化の面すべての救いを含むもたらす王としてのメシアであったようです。イエスは王の血筋、家柄にはない、大工職人。生まれも育ちも田舎ナザレ。ここからは何もよいものは出ないと思われてました(ヨハネ1章46節)。癒しや奇跡を起こすこと、人の苦しみを共感し、慈しむことにおいては天才的でありましたが、軍事力0政治活動0、貧しいから文化と言っても質素。宗教的にはユダヤ教からは異端者、神を冒涜するもの(安息日の活動などから)と思われていました。しかも、イエスの救い主としての最終的活動は十字架と復活となります。ペトロの言うメシア像とイエスの取るメシアとしての行動には大きなかい離がありました。だから、イエスはこの時はまだイエスがメシアであることを黙っているように命じたのでしょう。イエスの復活の後は弟子たちに次のように話されます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべてを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)

預言者エリヤは天に上げられる前に弟子のエリシャに神の霊を受け継がせました。これは出エジプトでみられたような神の意志(抑圧からの解放、十戒)を取り次ぐ役割の継承でもありましょう。
イエスはイエスの教会を建てると言い、すべての民をイエスの弟子にし、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、命じておいたすべてを守るように教えなさいとのメッセージを与えられました。さらにイエスは終わりの時まで私たちといつも共にいると言ってくださいました。聖霊となって導いてくださるというのでしょう。万事休すと思った時私が見た、私を招く十字架のイエスはもしかして聖霊の導きだったのかもしれません。そこにイエスの教会は建つのでしょう。陰府(よみ)力も対抗できないイエスの教会。エリシャが受け継いだ神の霊も神の意志(抑圧からの解放、十戒)もそこには含まれているのでしょう。もちろん平和もイエスの教会にはあるのでしょう。私の終活に及んではイエス
の教会へと向かうものです。

みなさんの祝福をいのります。