聖書 列王記下25章1~29節
コリント信徒への手紙12章1~10節
説教 平和の共同体の心得「弱さに働く神の力」
前回のFBの説教「東日本大震災を通して考える受難」見て、難しいと私に言って下さる方がいらっしゃいました。私自身、聖書について深く理解しているわけでもなく、聖書にぶち当たり、注解書や他の方の解釈を参考に自分のメッセージを組み立てていっているわけですから、分かり辛い話になってしまのは当然でしょう。勉強する時間がなければ、益々分かり辛くなるのは至極当然。牧師失格です。説教を作って話して一番勉強になるのは私です(こんなこと言っては失礼なことと思いますが、本当だと思います。私にとっては説教を作るこで、自分に聖書知識を増やし、神様からのメッセージを見つけて受けることができるのです。説教を作ることは、とても恵みが与えられる喜びの出来事なのです。みんさまにも自分が受けた恵みを分かち合えるようにメッセージを伝えないといけないですね。すみません。
本日の列王記25章はエルサレムの陥落の場面です。イスラエル民族の王国の都エルサレムがバビロニアの王ネブカドネツァルによって包囲され、食料が尽き、エルサレムは焼き払われ、神殿の宝物は奪い去られました。ネブカドネザルに反旗を翻した南ユダの最後の王ゼカルヤは捕えられ、自分の子どもたちを目の前で殺され、ゼカルヤは直後に両目を潰され、足枷をはめられ、バビロンに連れて行かれました。ある者はエルサレムの地に残され、バビロンの支配を受け、ある者はエジプトに逃げました。国と神殿が無くなったことは、イスラエルの民にとっては最大の悲惨であったと思います。しかし、列王記の最後はバビロンに捕囚されていたヨヤキン(ユダの王19代目)が捕囚27年目にバビロニアの王に情けをかけられ、釈放され、手厚くもてなされ、毎日王と食事を共にすることになったと記されています。絶体絶命の時にも生き延びる道があるということを本日の列王記の終わりからメッセージとして受けます。また、バビロニア捕囚がなければ、もしかしたら、神の発見はなく、旧約聖書は生まれなかったかもしれないと思うとダビデから続いたイスラエルの民の滅亡を滅亡は新たな創造にも繋がり得るという不思議な出来事としてわたしはとらえています。
本日の新約聖書のコリントへの信徒の手紙にはパウロの神体験、啓示が書かれています。パウロは自分の弱さや欠点を取り去ってくださるように神に3度願ったのです。その時、主からの言葉をパウロは聞きました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言う言葉です。パウロはこの言葉を受け語ります。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時こそ強いから」と。
私たちの暮らしは順風満帆とは行かないことが多く、むしろ、躓くことが多いのではないでしょうか。わたしはそうです。言語聴覚士の仕事にせよ、牧師の仕事にせよ、一般庶民としての在り様にせよ、欠点と出来ないことだらけの弱い者です。個人的なことを言って申し訳ありませんが、この3月は、礼拝と宣教はもちろん、日々の家庭生活と仕事に加え、週1回の病院訪問、今日の自治会の総会の準備と議事録作成、28日に保健師の事業での「言語障碍のある方々から学ぶコミュニケーション」の講演、29日30日に職場で新人研修、イースターの準備、4月16日にある牧師会の準備、教会総会の準備、施設の全国研究会発表の資料つくり、子どもの発達支援を考える会会報の原稿つくり等々があり、もはや行き詰まり状態。ですが、「弱さに働く神の力」があることを今日改めて知ることで不思議に歩み続ける意志を与えられる者です。
みなさまの祝福を祈ります。