聖書 列王記下21章1~20節
マルコによる福音書6章14~29節
説教 平和の共同体の心得「闇の中からでも希望を探す」
本日の聖書の個所は、信仰者にとって甚だ迷惑と言いますか、こんなこと書いて欲しくないと思う事が書かれています。神の力や信仰って現実の生活では支配者の力には全く太刀打ちできないという事を知らされる個所です。
まず、列王記の本日の個所。ユダ王国のマナセという王は主の目の前に悪という悪を重ね、バアルの祭壇、アシュラ像の偶像を作ったり、天の万象にひれ伏し仕えました(列王記下21:3)。そして、ユダ王国の都エルサレムの主の神殿の中に異教の祭壇を築いたのです。そして、自分の息子を人身供養として捧げたり、占いやまじない、口寄せや霊媒を用いたのでした。こういうことをすれば神はマナセを即座に罰を与えるかと思いきや、なんと、このマナセは55年にも渡り、ユダの王位につくこととなりました。これは、ユダの20名の王の中最長(イスラエルの19名の王を含めても最長)です。どうしてこのような十戒違反を堂々と成す王を55年も王位につかせているのか?なぜ、神はマナセを改心させないままにしておくのか?という疑問が出てきます。歴代誌下33章にはマナセが悔い改めたことが書かれたり、旧約聖書続編には「マナセの祈り」として悔改めたマナセの祈りが示されていますので、王位55年かかって悔改めたからとも考えられますが、列王記だけでは、愛する民が悪を行っても神はそれをどうすることもできないように伺えてしまいます。
そして、本日のマルコによる福音書の洗礼者ヨハネが、ユダの王ヘロデに殺害されるところは信仰者にとってはあまりにもショッキングなところです。洗礼者ヨハネはイエスの親戚で、イエスからは「女から生まれた者でヨハネより偉大な者はいない」と高い評価をもらっています。そのヨハネがユダの王ヘロデの律法違反(ヘロデがヘロデの兄弟の妻ヘロディアを妻としていた)をヘロデに指摘したため、ヨハネは牢に入れられていたのです。ヘロデはヨハネを殺そうと思ってもいましたが、ヨハネの言うことに耳を傾け喜んでもいたらしいです。ヘロデはヘロデの誕生日にその地方の有力者を集め宴会を催しました。そのとき、ヘロディアの娘が客の前で踊りを踊りましたら、ヘロデと客は大変喜びました。そこで、ヘロデは少女に欲しいものは何でもやると約束しました。少女は母ヘロディアに相談すると「洗礼者ヨハネの首を」と言いました。少女はヘロデに「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せていただきとうございます」と願ったのです。洗礼者ヨハネはあえなく斬首、首は盆に載せられ少女に渡され、少女は母親にそれを渡したというのです。なんという人権もなにも無視された命を弄ばれている侮蔑的死。イエスに絶賛され、命を救うイスラエルの神に従うヨハネにこんなことあってはならないと思います。ここを読んで、なぜ、このようなことが生じるのか?命を救う神様っていないんじゃないのかと思ってしまうところです。
本日の個所は信仰していても現実の支配者の力にはどうしようもない、返って命を奪われてしまう、闇と思われるところです。十戒の神、愛の神、平和の神、非暴力の神の御心を行う者は、十戒に背き、愛よりも金を求め、平和ではなく、戦争によって相手を怖じ気つけ、いじめやセクハラなども含めた暴力行使のこの世から排除される者であるということでしょう。わたしの信じている救い主イエスもそうでした。十字架によって排除されました。わたしもいずれ排除されるのだろうかという不安もあります。この際、マナセ王のように暴力を行使する側に回って命拾いした方がよいのではないかと惑わされます。闇です。
わたしは本日の聖書の個所からこの闇の中からでも希望を見出そうと思いました。その結果がこうです。十戒の神、愛の神、平和の神、非暴力の神の御心を行う者は、十戒に背き、愛よりも金を求め、平和ではなく、戦争によって相手を怖じ気つけ、いじめやセクハラなども含めた暴力行使のこの世から排除された場合、災害にあったと思おうと。そして、現実社会で非難訓練などして防災に努めているように、わたしたちが十戒を守り、愛と平和を求め、非暴力の生活を送るように努めることで、世の破壊的、暴力的支配の防災になるのではないかと思いました。
今日の題は「闇の中からでも希望を探す」にしました。ずれているかもしれませんがお許しください。
みなさまの祝福をお祈りします。