聖書 列王記下21章1節~23章30節(朗読21章1~13節)
マルコによる福音書1章1~8節
説教 平和の共同体の心得「闇からの脱出の罪の悔い改め」

キリスト者は悔い改めの生涯とか悔い改めの連続だということを良く聞きます。宗教改革者マルチンルターも生涯が悔い改めであることを信仰の信条としていました(95か条の論題1)。

この悔い改めとは十戒をはじめとする神の言葉に従って生きることであると私は思っています。
出エジプト記20章3~17節に十戒の個所がありますので以下にしめします。
1.あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
2.あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
3.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
4.安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
5.あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.隣人に関して偽証してはならない。
10.隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

人はこのような教えを守られないで生きているのでしょう。しかし、この教えを守って生きていくならば、平和で幸いに感じる暮らしが与えられるように思います。

本日の列王記下にはユダの王ヨシヤのことが記されています。主に選ばれたイスラエルの民であっても主の教えに背く世の中、ヨシヤは主の教えに立ち返ろうとしました。そういう時、神殿の修復中に「律法の書」が見つかるという出来事が生じました(注解書によればBC622年)。「律法の書」とは神の教えが書かれている書です。ヨシヤの思いはその出来事によって強められ、熱心に異教の神殿を取り除く活動をしていきました。さらにアッシリアに占領されていた北イスラエルの都市ベテルやサマリヤ地方の町々でも異教の神殿を取り除くことができたとあります(23章20節に異教の祭司が殺害されたことも記されていますが、ここは十戒違反。編集者の創作か?)。このときアッシリアが弱体化した時期でもあったようで束の間の平和が訪れたのかのようです。背信の民が多い世であっても、主の教えに立ち返ろうとする改革者の出現があるということを本日の列王記の記事から伺うことができます。

本日のマルコによる福音書には、洗礼者ヨハネが、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を提供していました。悔い改めとは神の言葉に従って歩もうとすることで、悔い改めの(バプテスマ)とは、それができない自分の禊ぎの儀式であったように私は理解しています。イエスもこの洗礼を受ける訳ですが、これは、十字架に架かる罪の清めのためではなかったかと思います。自ら十字架につけられる訳ですが、それは人々に十戒違反を幇助することになります。その罪をイエスは犯す訳ですから。

この闇の世に神の言葉に従うことだけが唯一の救いになると思います。必要なのは神の言葉です。それを宣べ伝える者はこの歴史上の中で止んではいません。預言者を通して、律法の書を通して、洗礼者ヨハネやキリストイエスを通して、教会や聖書を通して、信仰者を通して、神の言葉は、聖霊によって語られ続けられていると思います。この言葉に聞き従うよう悔い改めていくこと、それが、この世の闇からの脱出の道なのでありましょう。

みなさまの祝福を祈ります。