聖書 列王記下1章1節~17節、ヨハネによる福音書16章25~33節
説教 平和の共同体の心得「勇気を出せ」

「神は本当にいるのだろうか?」
信仰の篤いと思われるマザーテレサもインドのカルカゴでの貧しい方々への奉仕活動に入るや否や神はいないのではないかと悩みつつ、他界するまで神はいないのではないかとか、神から見放されたのではないかという心の闇を神父に告白していたということです。

私たちの神は「ことば」であったり、「霊」であったり、と実際に実感することに難しさを覚え、無視でき、存在しないとさえ考えることができます。十戒を守ったり、愛することといってもそれだけで人は生きていけないと思い、土地や家、家族や、仕事、お金や政治など実際生きていくには物理的な事柄を求めていくのが通常です。しかし、十戒には土地を持てとか家族を持てとか稼げなどということは出てきません。イエスになったら、「愛し合いなさい」ということになってしまいました。これで生きていけるのか、という問題に突き当たるのです。

今日の旧約聖書には、北イスラエルの王アハズヤが屋上の部屋の欄干から落ちて病気になったとき、イスラエルの神ではなく、エクロンの神バアル・ゼブブに病気が治るか尋ねたことが書かれています。「バアル・ゼブブ」というのは「ハエの神」という意味らしいです。本来「バアル・ゼブル」であったようで「尊い神」「高められた神」という名であったが、おそらく聖書編集者が敢えて貶めて「バアル・ゼブブ」と揶揄した表現を使ったらしいのです。しかし、この「バアル・ゼブブ」、特技が病気の治癒であったとのこと(新共同訳旧約聖書注解Ⅰp633)。それに対して、主の御使いは預言者エリヤに言います。「立て、上って行ってサマリアの王(アハズヤ)の使者に会って言え。あなたたちはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとでかけているがイスラエルには神がないとでもいうのか。それゆえ主はこう言われる。あなたは上った寝台から降りることはない。あなた必ず死ぬ』」

アハズヤはこのことを聞きつけ、エリヤの元に(恐らくエリヤを捕えようとして、)はじめ50人の隊と隊長をエリヤを捕えようと送りつけますが、天から火が降ってきて50人の隊と隊長を焼き尽くしました。アハズヤは2度目も同じように50人の隊と隊長をエリヤの元に送りましたが、この50人の隊も隊長も同様に焼き尽くされました。3度目の軍隊は命乞いをエリヤにしました。すると、主のみ使いが彼らと王の元に行くようにとエリヤに語りました。エリヤはアハズヤに会い、イスラエルの神ではない、バアル・ゼブブに頼ったことを非難し、死を宣告します。アハズヤはその通り死にました。

この列王記下1章には人の命を奪われるという十戒違反も記されています。神によって人の命が奪われたところはおそらく聖書編集者の思想に基づいた創作だったと思われます。ここで聖書編集者が言いたい事は、「イスラエルの神は、軍隊は必要としない、癒しの特技もいらない。人とは十戒や神に頼り、また、具体的な神の指示を得て従っていかねば、生き続けることはできない」ということだと思います。

更に本日のヨハネ福音書16章33節では、イエスは言っています。「これらのことを話したのはあなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」
十戒や愛し合うという神の指示に従うことで私たちは生き、平和が実現するというのです。現実問題、わたしたちは衣食住を確保しなければなりません。食べるためにはお金を稼がねばなりません。家族があれば家族の分も稼がなければければなりません。信仰の前にまず第1にそういうものを得ることの方が重要なのではないか、医療技術など病気を癒す技術も欠かせないのではないか、ということは常識的なことです。しかし、聖書の神はそうではないのです。十戒を守ること、愛し合うことをまず、第一に勧める神なのです。

アハズヤが癒しを特技とするバアル・ゼブブに尋ねることは悪いことではないようにこの世的には思います。しかし、「十戒や愛を勧める神にまず従って見よ、平和を得ることが出来るから。」と私には今日の聖書から神の言葉を受けとめます。さらに神は続けて語ります。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出して十戒や愛を実践するようにしていきなさい。それを命じたわたしは既に世に勝っているのだから」

これでは、誰が信仰に入るのだろうかと牧師である私も不信仰になっていますが、本日の聖書から私が受け取るメッセージは以上のようなことです。
平和実現のために救い主イエスキリストを信じ、十戒と愛の実践をしていく勇気を出していきましょう。

みなさまの祝福をお祈りします。