聖書 列王記下18章1節~19章37節、マルコによる福音書11章23~25節
説教 平和の共同体の心得「主に依り頼む」
主に依り頼む、人間にとってこれほど難しいことはないと思います。神は本当にいるのか、自分の祈りに答えるのかという疑問や疑いがいつもあるからです。しかし、私の事を言わせてもらえるならば、自分には到底解決できないと思われる出来事に出会ったお蔭で、あるかないか分からない神を信じる道を選びました。本日の聖書の2個所から主により頼むことで私たちは守られて平和に生きることができると思わされます。
列王記18章~19章にはユダの王ヒゼキヤのことが記されています。ヒゼキヤは「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」と聖書に示されて、ユダの王の中でヒゼキヤのように主に依り頼んだ王はなかったともされています(ユダ王国の歴代王20人中7人が主の目にかなう正しいことを行ったとの記載があるなかで最高の評価)。このヒゼキヤはアッシリアに南ユダが攻め込まれたとき、アッシリアの王に屈服しませんでした。アッシリアの王の方がイスラエルの神より民を救いだせるということをユダ王国の人々に語り、降伏を迫るのです。しかし、ヒゼキアは主に依り頼み、預言者イザヤに問い、主に祈り求めます。イザヤは主がアッシリアを追い返し、都エルサレムを守り抜いて救うことをヒゼキヤに語ります。アッシリア軍はその通り、ユダ王国から撤退しました。聖書には「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で18万5千人を撃った。朝早く起きてみると彼らは皆死体となっていた(列王記下19章35節)」と記しています(ここは恐らく主の目に正しく生きた者が守られるという列王記編集者の思想を表すための創作。十戒違反を神はしない。実際は列王記18章14節から15節にあるように金品をアッシリアの王に贈り難を逃れたかもしれないという鳥井一夫牧師のような解釈者もあり、私も同じ解釈)。
もう一つ注意したい個所は、ヒゼキヤの祈りの中に次のような個所があることです。「私たちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼(アッシリアの王)の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください(列王記下19章19節)」。ここは侵略される敵からユダ王国が救い出されることだけではなく、敵国も含め全世界が十戒を示す神を主とすることができるようにとの聖書編集者の世界平和の思想が表されている個所でもあると思われます。
マルコによる福音書11章23節~25節には次のようにあります。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言う通りなると信じるならば、その通りになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればその通りになる。また、立って祈るとき、だれかに対して、恨みに思うことがあれば赦してあげなさい。そうすれば、天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。ここでは、主に信頼することで祈りもとめるものがすべて得られたという、驚くべきことが記されています。
そして、この個所を読んだとき、私自身が気になったのが、「だれかに対して、恨みに思うことがあれば赦してあげなさい。そうすれば天の父もあなた方の過ちを赦してくださる」という言葉です。実は私、今、行っている施設の職員に気にくわない人がいるのです。ああ、神はその人に対して、赦せといいましょうか、裁くな、良く理解せよ、とでも語っているかのようです。心していきたいと思います。
本日の聖書の個所から、主により頼むことによって敵からの破壊を守り、恨みや過ちを赦し合える平和な社会の実現を私は夢見るものです。
みなさまの祝福を祈ります。