聖書 列王記下17章1~41節(旧約p606)
マルコによる福音書4章30~32節(新約p68)
説教 平和の共同体の心得「大切なのは一人ひとりの信仰」

本日の列王記下17章には、北イスラエル王国の滅亡(前722年)が描かれています。イスラエル王国が南北に分かれて200年、19代目の王ホシェア王のとき、都であったサマリアがアッシリアに占領されてしまい、北イスラエルはアッシリアの属州にされ吸収されました。サマリアにいたイスラエルの民(恐らく一部)はアッシリアに連行されました(23節)。サマリアにはメソポタミアから移民が入り、異教の神が持ち込まれました。しかし、ここで不思議な出来事が起こりました。異教の神を信じながら、なお、且つサマリアに入った移民はイスラエルの神をも礼拝するようになっていったのです。聖書にはそれが主の業であったことが書かれています。聖書には、なぜ、このように北イスラエルが滅んでしまったかついて、7-23節に書かれています。7節から8節を読みますと、「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、主がイスラエルの人々から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである。」とあります。国が滅んだのは人々の背信のためだったという事になります。

ここで気づくことなのですが、聖書は、背信の民の裁きを国の滅亡として表しているということです。人々の命はアッシリアに連行されはしましたが、滅ぼされてはいません。また、サマリアへ移民としてきた異教の人々はイスラエルの神を礼拝するようになってしまっているではありませんか。北イスラエル王国は無くなりましたが、それに伴い、イスラエルの神への信仰は広大なアッシリア地方の人々に広がりをみせていったとも考えられます。

本日の新約聖書の個所は『「からし種」のたとえ』と新共同訳聖書では小見出しがついている個所です。イエスが語った神の国のたとえですが、「神の国は何にたとえようか。どのようなたとえでしめそうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」とあります。「からし種」とは一人の信仰ではないかと思います。一人の信仰者がこの地に生きているときに、その信仰が大きな働きをこの地になすようになることを神の国のたとえとして語ったのだと思います。

水による受洗者の減少、それに伴う教会の縮小、閉鎖などをわたしたちは嘆き、なんとかならないものかと不安に思い、なんら力のない自分に嘆いていはしないでしょうか?本日の聖書から北イスラエルの王国は滅びても信仰は残りました。水による受洗者や教会という目に見える形式的なものが無くなったとしても、信仰は残り、さらに、一人の信仰は生きている間、この世に対して大きな働きをなすというのです。わたしたちに重要なのは一人ひとりの信仰なのです。受洗者や教会の維持拡大ではないのです。あなたの信仰、わたしの信仰、それのみが天の国に必要なものなのでしょう。そして、そのことが平和の共同体へと繋がっていくことでもあるのでしょう。自分の信仰を求めていきましょう。

みなさまの祝福を祈ります。