聖書 列王記下12章1~22節
   ルカによる福音書2章22~38節
説教 平和の共同体の心得「救いの改革者イエス」

クリスマスのメッセージは救い主の誕生です。救い主がこの地に生まれたということです。人類の救いは完成したということです。だから私たちは喜んでクリスマスを祝っているのです。人々は自分の救いはどこにあるのか、人類の救いはどこにあるのかと救いを求めているのです。ずーっと昔からそうでした。ユダヤ教では十戒や律法という暮らし上での決まりを守ることで人の救いは達成されると考えていたようです。しかし、イエスは違いました。イエスが生まれること(あるいは生涯)が人類を救う条件であったと聖書は語っているように思います。この点、私はイエスを救いの改革者と呼びたいと思います。今年は宗教改革500年と言われ、宗教改革者ルターやカルバンの名前が思い起こされる方もいらっしゃるでしょうが、神学者の鈴木浩氏によると彼らはアウグスチヌスの神学をより極端化したらしく、元にあるのはアウグスチヌスの神学らしいです(ルターは原罪説を明確化し、カルバンは二重予定説―救われる者と滅びに至る者は既に決まっているという説―を明確化した)。イエスは救いについて彼が引き受けたということですから、ルターやカルバンの改革とは全く次元が違っています。

本日の列王記下にはユダの王ヨアシュの宗教改革について述べられています。「ヨアシュは、祭司ヨヤダの教えを受けて、その生涯を主の目にかなう正しいことを行った」(12章3節)とあります。十戒など神の言葉に従って生きるという当たり前のことをしただけだと思いますが、当たり前のことが出来ないのが堕落した人間です。ヨアシュは堕落した暮らしを本来あるべき姿に戻そうとしたようです。そして、ヨアシュのさらに素晴らしいところは、アラムの外敵が攻め登ってこようとしたときに、先祖が生別したすべての聖なる物、自分が聖別した物、及び主の神殿の宝物庫と王宮にあるすべての金を取り出して、アラムの王に渡して戦争を回避したことです。聖別した物、神殿の宝物庫にある宝によって命を救ったと私はここを評価します。しかし、このヨアシュは謀反によって殺害されてしまいました。世の無常、悲しさをここにみます。

本日のルカによる福音書には、イエスの誕生後、聖別されるためにエルサレムの神殿に連れていかれたときのことが描かれています。聖霊に導かれた信仰の篤い老人シメオンはイエスを見るなり次のように語ります。「主よ、いまこそあなたは、お言葉どおり、この僕をやすらかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いをみたからです。これは万人のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」また、84歳の女預言者はイエスに近づいてきて神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話しました。私はここですでにこの世は救われたということが示されていると読み取ります。なんと「イエスの誕生によってこの世は救われた」ではありませんか。

この世に救いがないと思う事で人々は不安になり、生き辛さを増し、自分でなんとかしようとして周囲にも問題を広げてしまうような気がします。本日の列王記下にみたヨアシュ王の殺害も家臣たちがヨアシュのやり方では救いがないと思ってしまったからでしょう。十戒や敵を愛せよというような神の言葉とは信じない人には不安を生じさせます。平和運動も暴力的になったり、平和のための戦争になったり混沌としてしまっています。私自身もそうなることがしょっちゅうあります。そのようなときには、この世に救いがないとかあるとか意識しない人や動物や植物や自然界のものたちに思いを寄せてみるようにします。彼らは、戦争や震災や原発事故などどんなことがあろうとなんと穏やかに平静を保って過ごしていることでしょう。彼らから平和の心得を学びたいと思います。私が反戦運動や被害者支援や反核運動をしないということではありません。穏やかに平静を保って反戦運動、被害者支援、反核運動をしていこうというのです。そして、人類の救いをもたらしたと聖書に明記されている救いの改革者イエスに感謝し、その教えに聴き従っていきたいと思います。

皆様の祝福を祈ります。