聖書 列王記上22章1節~54節
ルカによる福音書21章7~19節
説教 平和の共同体の心得「神の言葉に聞き従う忍耐」
北朝鮮とアメリカの罵り合いは呪い合うようで聞いて耐えない口喧嘩のようです。しかも、相手を殲滅させるというトランプ氏の発言は十戒違反、「敵を愛せよ」という主の言葉に対する無視です。もちろん両者とも自国に対する脅しに対しての報復としての破壊行為を正当化しているようです。日本の安倍首相は北朝鮮へ対話ではなく圧力だということを語り、北朝鮮の人々を結果的に苦しめること以外に解決策はないかのごとくに話しているように私には思えます。
この問題に主はどう答えているのか?北朝鮮を苦しめる、殲滅せると脅せと言っているのでしょうか?私は次の言葉を思い起こします。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父のことなるためである。父は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(マタイ5:44,45)」このことから北朝鮮もアメリカもお互いのために祝福を祈るべきなのです。呪い合うのではなく神の祝福を祈り合う言葉を述べるべきなのです。
本日の聖書の列王記の個所には神の言葉に聞き従えないアハブ王の悲運な死の結末が描かれています。イスラエルの王は敵国アラムとは戦いのない3年間が過ぎました。列王記20章にあるアラムとの戦いで勝利したアハブはアラムの王ベン・ハダトを協定(以前イスラエルから奪った町々を返すという協定)を結んで生かして返しました。ユダ王国ともイスラエル王国はこの時期は関係がよかったようです。ユダの王ヨシャファトの子ヨラムとイスラエルの王アハブの娘アタルヤが婚姻関係を結んでいました(列王記下8章18節)。この状態を続けていき、アラムの王が奪った町々を返すのを成り行きに任せるなり、外交を続けるなりして待っていれば平和な状態になったとだと思います。しかし、イスラエルの王アハブは奪われた町ラモト・ギレアト(ここに逃れた罪人は赦される逃れの町がありました。)を力づくで奪い返そうと思ったようです。ユダの王ヨシャファトを呼び寄せ、一緒に戦わないかと持ち掛けます。ユダ王国はヨシャファトの父アサの時代にアラム王ベン・ハダトと同盟関係を結んだ経緯がありました。ヨシャファトとしてはこのままの状態で平和な状態を維持していきたいと思っていたのだと思います。ヨシャファトはこのとき、「まず、主の言葉を求めてください」と言いました。イスラエルの王は400名の預言者を召集し、「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問いました。彼らは「攻め上ってください。主は王の手にこれをお渡しになります」と答えました。しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うとイスラエルの王はヨシャファトに答えます。「もう一人主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼は私に幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤです」ヨシャファトは「王よ。そのように言ってはなりません」といさめ、預言者ミカヤを呼び寄せます。ミカヤは使いの者から他の預言者が預言したように告げてくれと頼まれましたが、ミカヤの預言は「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのを私は見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました」と語ります。アラムに攻め上ることには言及せず、国内の人々が安心してくらせるように内政の充実を図るようにとの預言でしょう。更にミカヤは他の預言については偽りの預言だと語りました。他の預言者はミカヤの頬を殴り、アハブはミカヤを捕え、牢に入れてしまいました。アハブはミカヤの預言を無視し、アラムに攻め上ります。変装して敵の目をくらましそうとするのですが、アラムの兵が何気なく引いた弓がアハブに当たり、息絶えてしまいました。アラムに攻め上ったのは誤りだったのでしょう。力づくで奪われた町を取り戻すのではなく、ミカヤの予言通り国民の暮らしを良くするように努め、忍耐をもって周囲と良好な関係を保ってていれば、平和な状態が続いていたように思います。
本日のルカによる福音書は『終末の徴』と小見出しがついている個所です(新共同訳聖書)。全文を記します。
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
この個所を見ていると北朝鮮とアメリカ、日本も含め世界情勢を語っているように思われます。それだけではなく、今、私たちが暮らしている個人と個人の関係でも言えることだと思います。イエスを信じる信仰つまり、十戒を守ろうとしたり、敵を愛しようとしたりすることで、人に憎まれる時が終末です。しかし、その信仰を忍耐をもって続けていくときに、命を勝ち取る、とイエスが語っています。これは世の人々の日常の平和が実現するということでしょう。
本日の聖書の個所から、十戒とか敵を愛せという預言は、人間の欲望がひしめく複雑なこの世では無視されやすく、お気に入りではない言葉でしょうが、そのような中にあっても神の言葉に聞き従う事、それは忍耐が必要だということですが、その忍耐によって命を勝ち取ることが出来る、平和を勝ち取ることが出来ると私は受け止めました。
みなさまの祝福を祈ります。