聖書 列王記上20章1節~43節(旧約p567)
   ヨハネによる福音書14章15~31節(新約p197)
説教 平和の共同体の心得「主を知ること」

身体に障碍があったり、病気だったりするとき、原因が分かると「ああ、そうなのか」と言って納得してしまうことがあります。赦せないことも赦せるようになることもあります。私の身体は脊髄の損傷によって不自由ですが、これは脊髄の運動神経細胞が損傷したためで、神経細胞は一旦損傷されると回復しない、だから、身体は不自由なまま一生暮らさなければならないということを受け入れることができ、不自由な自分も赦すといいますか、これでいいんだと折り合いが付くのです。「知ること」によって人は折り合いをつけてあるがままをあるがままに受け入れることができるのでしょう。

旧約聖書には、特に出エジプト以降、よく、「わたし(ヤハウェ)こそ主であることを知るようになる」という表現が出てきます。本日の列王記上20章には2回でてきています。イスラエルの王アハブが強国アラムの王ベン・ハダトと2回に渡る戦いの勝利を預言者が伝えるときに「わたし(ヤハウェ)こそ主であることを知るようになる」が付いているのです。
ヤハウェが周囲の脅威から救い出す主だということをイスラエルの民は知るようになると預言者はアハブに語りました。

私たち人がこの世でするべきことは、神、抑圧から解放する救い主が
いるということなのではないでしょうか?

本日のヨハネによる福音書14章15~31節には、イエスの言葉が示されていますが、聖霊を与えられ、神から愛されていることが分かったり、すべてのことを教えてくれると語り、さらに平和を与えると話されます。最後に31節「わたしが父を愛し、父がお命じなったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう」で結びます。
この世の人々は、イエスのことを知る必要があると言います。神イエスを知るとどうなるのでしょうか?神イエスの偉大さとそれに対する自分のちっぽけさや罪深さを知り得るのでしょう。そして、神になり得ない自分が、信仰生活という手段で神と折り合いをつけつつ、自然体の自分としてこの世にも歩み出せるように思うのです。

みなさまの祝福を祈ります。