聖書 列王記上18章1節~24節
マルコによる福音書4章35~41節
説教 平和の共同体の心得「自然を支配する神と共に」
東日本大震災の被災地のある日本人少女がローマ法王に「私は日本人7歳です。私はとても怖い思いをしています。大丈夫だと思っていた家がとても揺れ、同じ年頃の人がたくさんなくなったり、外の公園に遊びに行けないからです。なぜこんなに悲しいことになるのか、神様とお話ができる法王、教えてください」と尋ねたそうです。法王は「私も同じように『なぜ』と自問しています。」と答えたそうです。東日本大災害を神様の仕業と考えると十戒違反となり神の教えと矛盾します。私は東日本大震災は神様の仕業ではないと思っています。災害という闇から救い出すのが神の業だと思っています。そこに自然を支配する神を私は見い出します。
本日の列王記上18章は預言者エリアとバアルの預言者との戦いが、ドラマチックに描かれています。バアルは古代パレスチナの住民が礼拝した豊作をもたらす神の名です。一方イスラエルの神(ヤハウエイ)は十戒を勧める神、エジプトからの人を抑圧から解放する神です。さてその双方の神の預言者の対決。場所はカルメル山。イスラエルの民を集めての対決。バアルの預言者450名対イエスラエルの神の預言者エリア1名。450対1。数的にはバアルの神が圧倒的に有利。対決の内容は薪の上に置いた雄牛に神の名を呼び火をつけた方が神ということの証明だということ。対決はバアルの預言者から始まり、朝から真昼頃までバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈り、踊ったりしました。エリアはそれを嘲笑います。彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で身体を傷つけ血を流すまでに至りましたが、なんの兆候もありませんでした。一方エリアは夕方にイスラエルの神の壊れた祭壇を修復し、イスラエルの部族の数の12の石で祭壇を作った後、祭壇の周囲に溝を掘り、薪の上に雄牛を切り裂き載せました。それから、水を3度いけにえと薪の上に注ぎ、水が溝に満ちました。そして、預言者エリアは言いました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に戻したのは、あなたであることを知るでしょう」。すると、主の火が降ってきて焼き尽くす捧げ物も祭壇と薪、石、塵も焼き、溝にあった水もなめつくしたと記されています(この時は干ばつの時です。突然、水が出てきたりするのですが、この辺はフィクションの可能性もあります)。この結果、イスラエルの神が神であるという事が示され、これらのことを見た民はすべてひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言いました。バアルの預言者450名はエリヤがキション川に連れて行って殺した(列王記上18章40節)とありますが、ここは十戒違反。おそらく、バアルの神に従う者は滅びるという旧約聖書編集者の思想の反映と思われ、旧約聖書編集者の創作と思われます。
私はこの個所を読んで、豊作の神と十戒の神の対決だと思いました。豊作に恵まれて生きるのがよいか、十戒を守って生きるのがよいかという問いにも受け止めることができます。旧約編集者は、十戒を守って生きる方が富を求めて生きるよりよい、富を求めて生きることは破滅への道だということを示しているように受け止めます。豊作や富を求めるとき、人は自然を支配しようとするのではないでしょうか?人間が自然を支配していったとき、自然破壊に繋がったり結局人間自身が破滅せざるを得なくなる、自業自得の道を歩むことになるのでしょう。旧約聖書編集者は豊作や富を求め、自然を支配しようとする暮らしに警告を示し、十戒等律法を守っていく暮らしを勧めているようです。
本日のマルコによる福音書では、イエスが湖で突風を静められたことが記載されています。イエスは自然を支配される神であるということをここで示されているように思います。
自然は神が支配しているもの、人は自然を支配することはできない、十戒や愛し合いなさいという言葉を提供してくださる神と共に歩むしか人間は生きることが出来ないのだ、というメッセージを本日の聖書の個所から受け止めました。
現代において、経済成長を目的とし、国家や企業等の共同体で経済優先の政策や経営がなされています。東日本大震災で事故を起こした原子力発電もそのひとつの例でしょう。しかし、経済は何かを成すべきための手段や方法であって、人が活動する目的にはなり得ないのではないかと思います。神の言葉を聞き、それを行うための経済であってほしいと思います。
みなさまの祝福を祈ります。