聖書 列王記上15章1節~16章31節
   マタイによる福音書6章25~34節
説教 平和の共同体の心得「リーダーが悪くても」

自分の拠り所とはいったい何なのかを聖書は示してくれているように思います。それは神だという事なのですが、人間は神以外を拠り所とします。たとえば、それは国や軍事力を含む技術力、経済力かもしれません。家族や共同体のリーダーかもしれません。列王記にはイスラエルの王たちが列挙されていますが、王つまり拠り所とされる人々のリーダーについて書かれています。本日の列王記の個所にはユダの王のアサと北イスラエルの王5人について記されています。アサは主の目にかなう正しいことを行ったとされていますが、北イスラエルの王5人は主の目に悪とされることを行ったとされています。列王記には主の目にかなうことを行った場合は平和な国が与えられたり、戦いに勝ったり、子孫が続いて行くなど神の祝福に預かり、主の目に悪とされることを行うと国は混乱し、クーデターや王の暗殺が生じたり、治安が悪くなり、子孫も根絶やしにされたりすることが記されています。

頼るべきものがないとき、人はどうしたらよいのでしょうか?
旧約聖書の編集者のテーマの一つがこの問いへの回答であったと思っています。列王記が書かれたのはバビロニア捕囚時辺りに記されたらしいです。バビロニアに拠り所とする王国が滅ぼされた時、絶望したと思われるイスラエルの民ですが、彼らは、拠り所となる神を発見したのだと思います。これは、すごい発見です。それを聖書編集者は旧約聖書にまとめていったのだと思います。列王記の場合は神に従った王の統治は祝福され、神に従わなかった王の統治は滅びに至るという分かり易い例を紹介し、人々に神に従う恵みについて知らしめていたのだと思います。

イエスは本日のマタイの福音書6章25節~34節で、頼るべきものは神だとイエスは語っているようです。「空の鳥」「野の花」を例に挙げて神の国と神の義をまず求めていけば、生きていくのに必要な食物や衣類などは与えられると言っています。これは国家や軍事力や経済力を失い、リーダーも失い、何もかにも失った人々(鳥や草と同じように所有物のない人々)へイエスが語りかけてくれた言葉のように思えます。

以下にマタイの福音書6章25節~34節を記します。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」

国家のリーダーの中には軍事力を持ち、経済力をつけていこうとするリーダーもいます。たいていのリーダーはそうなのかもしれません。弱者の行く着く先を滅びへと導くリーダーもいます。悪しきリーダーたちが跋扈するこの世。そういうなかでありつつも私たちは拠り所を求めているのではないでしょうか? 神無き時代に頼るのは最終的には自分です。自分の健康や能力に頼ると思います。しかし、その自分はなんと小さく、弱く、儚い存在。私のことを思えばなおさら自分なんて全く当てになりません。そういうものに神イエスは語りかけているかのようです。「神の国と神の義を求めよ。そうすれば大丈夫だから」と。

「リーダーが悪くても、頼るべきものがなくても、神が養ってくださる」本日の聖書から与えられたメッセージです。

皆さまの祝福を祈ります。