列王記上14章1~31節
マルコによる福音書3章20~30節
説教 平和の共同体の心得「分裂しないためには」

今年は宗教改革500年と言われていますが、ローマカトリックからプロテスタント教会が分裂した500年とも考えられます。ローマカトリックがルターを破門にしたこと、これは私は悪しきことだったと思います。また、プロテスタント教会でも教義や教理の違いで分裂したことも悪しきことであったと思います。分裂はさまざまな組織でも日常茶飯事に起きています。大きくは国際的組織からの分裂、国家間の分裂、宗教、政治、職業、文化関係組織等の分裂、小さくはサークルや地域の活動組織の分裂、家庭で生じる断絶、夫婦の離婚、恋人や友人の解消、いじめやハラスメントまでなども分裂という同じ意味合いを有していると考えられると思います。そして、争いが高じて戦争にまでなるのでしょう。本日は広島原爆投下の日、それによってこれまで50万を超える人々の命が失われたようです。私たちはそういうことがあっても仕方ないと思ったり、〝いい“とさえ考えてしまうことはないでしょうか?聖書を読んでまいりますとこれら分裂は悪しきことではないかと考えさせられています。

本日の列王記には分裂したイスラエルの王たちがどういう王だったかが書かれています。北イスラエルの王ヤロブアムもユダの王レハブアムも偶像礼拝に走り、主の戒めを守らなかったからだとされています。そのためヤロブアムの息子は主によって病死したと聖書は示しています。ユダの王レハブアムも偶像礼拝や神殿男娼を置いたりして、「主を怒らせた」とあります。共同体分裂やうまくいかない理由を主の戒めを守らないことにあるとここの聖書編集者は強調されているようです。

本日の新約聖書のマルコによる福音書をみますと、分裂を内輪もめというふうに表現されてるように思います。ここの個所は「ベルゼブル論争」といわれていて何を言っているのかわかりにくいところです。悪霊の追い出しについて語っているかと思うと国家や家の内輪もめと滅びへの道にについて語り、家に入って略奪するにはまず強い人を縛って略奪すると言い、そして、続けて、どんな罪も赦されるとしている一方聖霊の冒瀆の罪は赦されないと話します。聖書においては纏まりがなくおかしいと思えるほど、原文に近いという考え(写本を繰り返す過程で同一個所が編集がされていったと考えれば後の方に分かり易く編集するだろうという考えかららしい)をあげる神学者もおりますが、それに従えば、ここはイエスが言ったことばに近いことが書かれていることになります。内輪もめで争えば国も家もサタンの組織も滅びると言っています。分裂や内輪もめは組織崩壊となることが示されています。そして、ここでは、「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆のことばもすべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う(マルコ3章29節)」という個所がでてきます。聖霊を冒瀆することだけが赦されず、永遠の裁きに遭うというのです。ここで、重要なのが「聖霊を冒涜するな」ということなのではないでしょうか?聖霊を冒瀆しなければ分裂や内輪もめが生じ滅びに行くことはないということでしょう。聖霊を尊重すればすべてがうまくいくとも取ることができます。平和の共同体には聖霊を崇め、崇拝するという神の秘儀をイエスはここで罪深い私たちに教えてくれたのだと思います。

聖霊とは何でしょうか。それは目に見えないものでどこにあるかもわからない謎の多い、けれども、聖書にはそれが「罪について、義について、世の誤りについて明らかにする(ヨハネによる福音書16章8節」「真理の霊(同16章13節」「真理の霊に願えば何でも叶う。そして、喜びで見たされる(同16章22~24節)」とイエスの言葉として示されてあります。信じる人にはあるもの、人智をはるかに超え、人々に喜びをもたらすようです。イエスは聖霊信仰へと我々を誘い、聖霊と共に生きる道を、十戒など律法を守る道から解放した(守れなくても赦される。聖霊は守ることを進めてはいるのですが、たとえ守られない場合は赦されるという)のだと思います。

偶像礼拝、殺人、姦淫、強盗、偽証しても赦される、しかし、聖霊を信じなさい。イエスはこういたかったのではないでしょうか。この聖霊を求め崇めていく信仰で、経験上(私の場合は20年以上の長い時間、聖霊信仰を紆余曲折しながらも続けていく中で)まか不思議罪赦されかつ罪を犯さなくなっていくように思います。平和の共同体にもこの聖霊信仰が必要なのだと今日の聖書の個所から思わされました。そのとき分裂は避けられ、聖霊によって一つにさせられる(エフェソ4章1~6節)平和が実現するのでしょう。

みなさまの祝福を祈ります。