士師記3章7~31節、ヨハネによる福音書16章16~24節
平和の共同体の心得『主に願いなさい』
イスラエルの民はカナンの地に定住後、彼らの神を忘れ、豊穣の神バアルとアシュラ(前回でたアシュトレトの母)に仕えたため、主はイスラエルに対して怒り、アラム・ナハライムの王に売り渡され、8年間仕えることになりました。イスラエルの人々は主に助けを求めました。すると、神様は一人の救助者オトニエルを立て、主の霊が彼に臨み、彼は士師としてイスラエルを裁いたと聖書にあります。士師記3章にはイスラエルの背信を救った士師がエフドとシャムガルというようにその都度でてきます。随分恵まれたイスラエルの民だなあと羨ましくなります。ただ、聖書の記事にはイスラエルを支配した王や兵士が殺されてしまったというところは気になります。「汝殺すなかれ」ではないのかと。ここは聖書記者の思想が繁栄された聖書記者の記述と解釈させてもらいたいです。カナンの地の原住民の人々からしてみたら、難民イスラエルの民を受け入れたのに滅ぼされたりしたのでは、たまったものではないでしょうから。実際はイスラエルの民は豊穣の神の魅力に負け、同化してしまっていったが、士師が出てイスラエルの神への信仰へ立ち戻らせていったということと受け止めて行きたいと思います。
現代の日本、世界も同様なのでしょう。豊穣、快楽、表向きの自己実現などイエスの求めている者ではない方へ人は興味を奪われ、富や見栄えや欲望の虜となって苦しんでいるのではないでしょうか?牧師や神父など信仰指導者を含め信仰者はこの危機的世界に苦しみや不当な支配からの解放をもたらす役割を有していると言ってもいいと思います。その点、教会は今とても重要な場になっていると思います。
本日のヨハネによる福音書には、悲しみ、苦しみが喜びに変わる、という希望を伝え、イエスは言います。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によって何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられあなたがたは喜びで満たされる」何とうれしい希望の言葉でしょう。
祝禱
どうか平和の主ご自身がいついかなる場合にも世界に平和をお与えくださいますように。
主イエスキリストの恵み神の愛聖霊の交わりが世界中にありますように。