聖書 士師記2章6~3章6節、エフェソの信徒への手紙2章11~22節
説教 平和の共同体の心得「主に従えば平和」

 士師記はカナンの地の豊穣の神にイスラエルの民の心が捕らわれている時の主の救いの出来事が書かれています。聖書をみますと神については罪からの救い主イエス・キリストを示すようになっています。十字架に掛かったイエスが神です。豊穣の神、子孫繁栄の神とは性質を異にします。新約聖書ではイエスもパウロの独身のままでもいいとさえ語るのです。十戒を守れ、敵を愛せとかは厳しく命じますが、特に絶対結婚せよとか絶対子作りせよなどとは言わないのです。この辺は共同体を持続可能にするための常識的な感覚からはずれているものです。本日の士師記では豊穣の神へと信仰を移すイスラエルの民を苦しめます。主に立ち返らせようと士師を与えていきました。
 士師は現代を見ているように思います。拝金主義、子作り奨励策がこの士師記のカナンのバアル、アシュタレト信仰に似ていると思います。神はこの神に従ったことに怒りに燃えるのです。イスラエルの民はその結果、略奪者や敵のいいようになってしまいます。自業自得ではありましたが、それでも神は士師を立てて守るべき神の言葉(律法)を伝え続けさせました。
 本日のエフェソの信徒への手紙では、イスラエルの民もそうでない外部の民もイエス・キリストにおいて一つにされるということが書かれています。イエス・キリストにおいて一つとされるというのです。バールの神を信じている人はイエス・キリストによってキリストの共同体=教会を形成すると語っています。それは、平和的な共同体でありましょう。旧約聖書は頑なにイスラエルの民の選民性を強調します。新約聖書はイエス・キリストによる全人類の救いを強調します。一見、異なるように思われますが、どちらも神中心であるということは共通し、全人類の救いを確信しているものと思います。神様は旧約では敢えて弱小なイスラエルを選び、自分の民とし、全人類を救うつもりだったでしょうし、イエスの時代はイエスの十字架で全人類の罪が贖われ、全人類が平和になれる希望が与えられたのだと思います。平和は、イスラエルの神の言葉に聞き従った時のみによる、イエス・キリストにのみよるということが本日の聖書から私はうかがい知ることが出来ました。

皆様の祝福を祈ります。