聖書 士師記13章1節~16章31節(朗読 16章15~17節) エフェソの信徒への手紙4章17~24節 説教 平和の共同体の心得「誘惑を受けても」 『サムソンとデリラ』はオペラや映画にもなっている物語で、とてもスリリングで悲劇でもあると思います。 このころイスラエルの人々はまたも主の前に悪とされることを行ったので、主は彼らを40年間ペリシテ人の支配下にありました。サムソンが生まれる前から、イスラエルをペリシテ人から救う先駆者となる、ナジル人とされていました。 ナジル人というのは、特別な誓い(サムソンの場合は髪を剃らない)をして、神に捧げた人々のことです。イスラエルの人は神に選ばれた民族ですが、ナジル人はその中でもさらに聖別されたかのような人です。彼は、髪を伸ばしているとき怪力を発揮できました。ろばのあご骨で1000人のペリシテ人を打ち殺すこともありました。ペリシテ人には無敵だったのです。しかし、サムソンは3人の女性を情熱的に愛しては3人からとも裏切られます。最後のデリラには、 怪力の源である髪の毛の秘密を打ち明けてしまい、ペリシテ人に売り渡されました。サムソンは髪を剃られ、敵の手に落ち、目はえぐり出され、青銅の足枷をはめられ、牢に入れられ、粉をひかされるようになってしまいます。 しかし、神様はそのようなときでも彼をペリシテ人からイスラエルを解放するナジル人として、用いられたのです。サムソンは、主に祈っていいました。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。 神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの2つ目の復讐を一気にさせてください」と言って、建物の柱を押し、建物を倒し、自分も建物にいたペリシテ人(屋上だけで3000人)が死んだと聖書に書かれています。 他の大士師たちはイスラエルの民を率いて外敵と戦いましたが、サムソンは常に個人としてペリシテ人と戦っています。ナジル人に生まれついたサムソンは敵に対しては超人的な力を発揮しますが、女性に対しては幼児のように弱い。サムソンは「士師としてイスラエルを裁いた」と二度士師記に語られていますが(15・20,16・31)、彼が実際イスラエルを支配したことはありません。サムソンは女性を情熱的に愛しては裏切られる情熱的な英雄であり、物語は彼の悲劇的氏を描いて終わります。(この段落は『新共同訳旧約聖書注解Ⅰ』p462より) 復讐や殺人は律法違反として考えないといけませんが、ペリシテの女性をイスラエルのナジル人サムソンが好きになることについては、「主のご計画である(士師14・4)」とされています。 ここから私が思うことは、神は、イスラエル人以外の女性を愛することは禁止されている当時の縛りから解放したのではないかと思います。或いは他民族との平和は個人的に愛し合う男女の純粋な性愛のようでなければならないというようなメッセージを受けます。 本日のエフェソの信徒への手紙4章22節には「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の奥底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく、清い生活を送るようにしなければなりません。」とあります。 ナジル人のサムソンは、情欲に迷い、女性の誘惑に負けた人だと言ってよいのでしょうか?いいえ、違うと思います。女性を神の愛で愛した人だと言った方がよいのではないかと私は本日の聖書を読み、思いました。サムソンは女性から誘惑されてはいますが、それより、もっと深いところで女性を愛していたのではないか、最後が壮絶な死を遂げても、サムソンはペリシテ人女性を愛し、それが、イスラエルを支配しているペリシテ人からの解放であり、救いなのだと思ったのだ、と思うと、何か、イエスキリストが、十字架についてまで罪びとの私を許した神の愛と同じような愛を、サムエルに垣間見させてもらっているようにも思えます。 みなさまの祝福を祈ります。