聖書 士師記10章6~12章15節(朗読10章6~18節) マタイによる福音書13章24~30節 説教 平和の共同体の心得「共生」 「共生」とは様々な価値観の方々が共に暮らすことです。しかし、この「共生」一筋縄ではいかないのが人間の性です。士師記の時代は「共生」という視点からみると、始めはイスラエルの民とカナンの地の原住民が異なる宗教をお互い尊重しつつ暮らしていたように思います。それが、共生を困難にする事態へ展開してしまったようにも思います。当然、共生となりますと土着の信仰にも付き合わさざるを得なくこともあります。私も、葬式など仏式にも参加しますし、元旦のお参りにも加わることがあります。そうしたことでイスラエルの民はヤハウエの神以外の神に従ってしまうことがあったのではないでしょうか。本日の士師記の冒頭には、「イスラエルの人々は、またも主の前に悪とあれることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々に仕えた」とあります。イスラエルの神は彼らに怒り、イスラエルの民をペリシテ人とアンモン人の手に売り渡します。イスラエルの民が苦境に立たされ、主に助けを求めたた時、主は言います。「あなたたちの選んだ神々のもとに行って、助けを求めて叫ぶがよい。苦境に立たされたときには、その神々が救ってくれよう。」と(いったん捨てた神に泣きつくというのも往生際が悪い民です)。イエスラエルの民がイスラエルの神に立ち返ったのを知ると、主はイスラエルの苦しみを見るのに忍びなくなり、エフタという士師が立てられます(なんと人が良い神様なこと!)。このエフタはイスラエルの民を外敵の他の現地在住の民族から武力で守るのですが、仲間のエフライムとの内紛にあったり、家族の一人娘を、神に願をかけたために、焼き尽くす支え物として捧げなければならなかったり、悲劇を経験した士師でした。信仰が異なる他民族との殺戮を伴う争い、信仰の同じ民族との殺戮を伴う争い、そして、社会の最も小さな構成要素である家庭での命を絶たれる悲劇、どこに共生の可能性があるのかと思わせられる個所が本日の士師記の箇所です。 現実の生活では、キリスト教だけではなく、仏教や神道、イスラム教など様々な信仰者と出会います。気仙沼では大きな問題がありませんが、イスラム国や過激組織集団は自分たちの信仰や思想が正しいと思ってか、それ以外の人々を敵や迫害者と見做すような考え方をし武力闘争までしているのではありませんか! キリスト教でもキリスト教以外の人を哀れな人であると思ったり、真の人間になっていない人と思ったりする方々もいます。私もつい最近、教会は困っている人々が行く場所だというようなことを言っていましたが、教会は困った人を助けることのできる能力がある場だと上から目線の言い方をしてしまいました。 「共生」とはいったいどういうことなのでしょうか?地球上に今生きている人、動物、植物、神羅万象があるということではいけないのでしょうか?人がその共生を壊している、本日の聖書はそのことを訴えているのではないでしょうか? 本日のマタイによる福音書には毒麦のたとえが書かれています。麦畑に敵が植えた毒麦が混ざっているがそれを取るべきか主人に尋ねますが、主人は言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしていない。刈り入れのとき、まず、毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて蔵に入れなさいと、刈り取る者にいいつけよう」と。 この世にあるものはすべて神によってつくられたものです。それをありがたく受け止めていくことだけで、いや、あるものは滅ぼさないように積極的に守っていくこと、そして、もし、裁きの結果がしりたいなら神に任せる信仰が、共生を可能せしめることなのではないでしょうか?神を裏切るような信仰が弱い民です。主に委ね、せめて、世界中のすべての人々が共生できますようにという祈りだけは、捧げていきたいものです。 みなさまの祝福を祈ります。