ヨシュア記8章1節~35節、ヨハネによる福音書18章1~11節
説教 平和の共同体の心得「非暴力」
ヨシュア記は、軍事力でカナンの地を、殺戮や都市を壊滅させることを行いながら、占領していく歴史的記述であるというようにも読めます。しかも神の指示で行ったとありますから、神は武力行使を支持したり、殺害や破壊、民族の殲滅を必要なこととして認めているように読めます。神がなぜそのようなことをするのか、ユダヤ教やキリスト教が経典、正典とし、さらに、イスラム教でさえ、重要な書としている聖書になぜこのような記述があるのか、という疑問が否応なしに湧いてきてしまいます。
しかし、ヨシュア記は神の箱が出てきたりするんです。この神の箱には十戒が入っているんですね。そして、それはイスラエルの民が守っていかないといけない神様から与えられた戒めなんですね。本日の聖書にも律法を一つ残らず、イスラエルの全会衆、女、子ども、彼らの間で生活する寄留者の前で読み上げた(35節)、とあります。律法には人を殺せ、他の民族を絶滅させよ、などという文言はありません。さて、この箇所は読者に神は戦争を是としているのか、非としているのかが、どっちかがはっきりしない状態にあります。神が十戒を与え、さらに、本日のような行為を指示したとするなら、断りがあってもいいはずです。十戒には汝殺すなかれ、とあるが、今回の殺害は例外であるという記載があってもよいようなものです。しかし、その断りがなく、ただ神の殲滅作戦のお告げがあるだけです。
新約聖書になるとイエスは非暴力を訴え実践していきます。本日の箇所はペテロが剣でイエスを捕まえようとしに来た大祭司の手下の耳を切り落としてしまった時のことが書かれています。イエスはそれを諫めるのです。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と。この場合、父がお与えになった杯とは一体全体何だったのでしょうか?十字架、そうです、この場面では、非暴力、と言っているに違いないと思います。
聖書には軍事力によってカナンを征服し、やがで軍事国家で繁栄を極めた、イスラエルが誕生していきます。しかし、神の言葉を守らなかった故に、分裂し、アッシリアやバビロニアに滅ばされてしまったことも記されています。このことをみると、軍事力や経済力では、国家や共同体形成はいかに神が指示したとしても、神の律法の言葉を守らなければ、崩壊することを示したいるように思います。そして、新約聖書においては、イエスは非暴力を最終的には神様の意志と捉えたと考えられます。若干新約聖書には暴力を肯定しているかにも見える箇所がなくもないです。例えば、イエスが、エルサレム境内での商売をしている台をひっくり返して怒った(怪我人はなし)とか、実の無いイチジクの木を枯らしてしまったとか、そのような話はありますが、本日のイエスが捕まる場面で非暴力を訴えることについては、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書すべてにあることです(切られた耳を癒したとルカは書き、マルコは悪人に対する暴力については否定はせず、福音記者によっては暴力に対する思想的な差はありそうですが、4福音書にはイエスが不当な逮捕,、刑罰に対して十字架に掛かったということが記されており、イエスは最終的には非暴力に至らしめた神の業を行った人であると私は解釈しています)。
暴力は人間の共同体、平和の共同体には必要なのでしょうか?私が思うに、聖書記者たちは殺害は正当防衛でも罪だと思っていたと思います。十戒に汝殺すなかれと書いてありますから。人は人を殺せない、暴力を振るっては良くないと思っていたのだと思います。だから、聖書に示されるイスラエルの人々の殺害や罪の罰としての死刑は、「すべて神のお告げ」として書かれているのかもしれません。人は人を殺せないという律法があるからです。もし、人を殺せるとしたら、「神」以外いないと考えたのだと思います。ヨシュアは軍師だったのかもしれません。彼の天才的指揮能力によってイスラエルの民はカナンの地に入り込み、定住に成功したのでしょう。そこには、現実には、(いかなる戦争でも起こりうる)殺害や略奪も行われましたが、聖書記者はこのことを神の業にして書かなければ十戒との矛盾を解消できないと思ったのではないでしょうか。
非暴力、十戒をみればこれは明らかですし、イエスの活動、特に十字架のかかり方を見ると「非暴力」が神の意志ではないかと思えます。放っておくと暴力に走ってしまうのが人間ということになるのでしょうか?だからこそ、十戒を始めとする神のことばが生きるのに必要なのかもしれません。「非暴力」も神から発する私たちへの平和な共同体を作るために必要な言葉だと思っています。
皆様の祝福を祈ります。
〈本日の説教要旨〉
ヨシュア記は、神の指示のもと殺人や略奪を含む暴力でカナンの地を占領していく歴史的記述であるとも読めます。ユダヤ教やキリスト教が正典とし、イスラム教でも重要な書としている聖書になぜこのような記述があるのかという疑問が湧いてきます。
しかし、ヨシュア記には神の箱が出てきます。この神の箱には汝殺すなかれ、盗むななどと書かれた律法の大元の十戒が入っています。そして、律法を一つ残らず、イスラエルの全会衆、女、子ども、彼らの間で生活する寄留者の前で読み上げた(35節)、とあります。
新約聖書になるとイエスは非暴力を訴えていきます。本日の箇所ではペトロが剣でイエスを捕まえようとしに来た大祭司の手下の耳を切り落としてしまった時、イエスはそれを諫めます。「剣をさやに納めなさい。」と。
非暴力、これは十戒をみればこれは明らかですし、イエスの活動、特に十字架から考えると「非暴力」が神の意志とも思えます。放っておくと暴力に走ってしまうのが人間ということになるのでしょうか?だからこそ、十戒を始めとする神のことばが生きるために必要なのかもしれません。「非暴力」も神から発する私たちへの平和な共同体を作るために必要な言葉だと思っています。