聖書 ヨシュア記24章1~24節

   ヨハネによる黙示録21章1~8節
説教 平和の共同体の心得「命の水の泉から値なしに飲ませよう」

 今日のタイトル「命の水の泉から値なしに飲ませよう」とは、神が人を生かすのは値なし(無料)だということです。本来人は神により無料で生かされているということでしょう。福音書を見てもイエスの活動、癒しや教え、食事の供給、弟子教育は無償でした。イエスらの食事は托鉢をしていたようです。
 本日のヨシュア記には、ヨシュアが自分の死を前にし、シケムというところでイスラエルの民に主の言葉を告げます。アブラハムからイサク、ヤコブ、そしてモーセ、ヨシュアに至るまで神のなされてきた導き、恵みについて語ります。結びには「わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたことのない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたことのないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている」となっています。これは「棚からぼた餅」ということだと思います。これはうまくいきすぎ、おかしいんじゃないと思う人がほとんどだと思います。しかし、障害者である私にとっては安心できる箇所です。弱者は強者に依存していきなければなりません。通常は、強者が弱者の神となる得るわけです。支配者がうまれるのです。昨今問題になっているいじめやハラスメントも強者―弱者の関係から生じるのかもしれません。ここに出てくる神は、強者を用い、弱者に生きる環境を提供するということを意味しているかのようです。強者は弱者の生を支えるためにあるということを言っているようにも思えます。強者―弱者の対等な関係性を話しているようにも思えます。生まれたばかりの人間は弱者ですね。人はその弱さを補うように生を支え栄ます。そうしないと人は生きていけません。
 ヨハネの黙示録は、この世の滅びゆくことからの救いを表していると思います。6節「渇いている者には、命の水の泉から値なしに飲ませよう」とあり、7節に「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神となり、その者は私の子となる」とあります。
 渇いているものとは、弱者のことではないでしょうか。
 弱者を救う勝利者=強者がこの世にあり続けることを示してくれている神に感謝し、信じ、主のみ言葉に従い続けていきたいものです。
 主よ憐れみ給え。

皆様の祝福を祈ります。