ヨシュア記22章1~34節、ヨハネによる福音書15章1~17節
説教題:平和の共同体の心得「私たちの間柄」

教会では洗礼を受けた教会員を兄弟姉妹と呼ぶことがよくあります。マタイによる福音書12章50節には「だれでも天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、母である」マルコ3章35節には「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、母なのだ」、ルカ8章21節には、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とあることから洗礼を受けた教会員を兄弟姉妹というのでしょう。御心を行うとはどういうことなのかは問われることですが。

本日のヨシュア記には、ヨルダン川の東側に住むルベン人、ガド人、マナセの半部族とヨルダン川西側に住むことになったその他の民族(こちらの方が断然多いのですが)とのちょっとした、いざこざが書かれています。東側に住む人はヨルダン川を境に分断されるわけですが、連帯しているという意味で、祭壇を築いたのでした。西側に住むスラエルの人々にも見えるようにそれは大きな祭壇でした。西側の人たちはその祭壇を見て、異教の神に仕えたか、と思いこみ、彼らに対し軍を派遣し、異教の信仰を捨てるように一方的に決めつけ、話します。しかし、ルベン、ガド、マナセの半部族の人々は言います。「神よ、主なる神よ。神よ、主なる神よ。神はご存知です。」と言い始まり、祭壇を築いた理由を、「異教の神に捧げるためではなく、同じ神を信じる者であるということを示すための記念碑のようなものだ」いうことを語ります。「あなたたちとわたしたち、更にわたしたち子どもとの間柄を証拠とするためです」と祭壇を築いた理由について語ります。

本日のヨハネによる福音書では、イエスをぶどうの木に例え、神を農夫と弟子例える。そして、イエスの弟子たちにイエスのブドウの木に繋がっていなさいと話します。イエスはブドウの木、弟子たちはその枝であると。そして、「わたしはあなた方を、僕とは呼ばない。友と呼ぶ。」と。そして、弟子たちにも「わたしがあなた方を愛したように、“互いに愛し合いなさい”」といいます。弟子たちにも「友」となるようにという命令がここに示されています。

友となること。私たち神を信じる者の間柄は「友」なのでしょう。タモリの「みんなで広げよう友達の輪」というキャッチフレーズはこのイエスのことばに従っているともいえます。しかし、実際、友達になるとは意外と難しいことなのかもしれません。支配者―被支配者、男尊女卑、尻に敷かれる夫、恋愛カップル、家制度による関係、師弟関係、親子、血のつながり、組織の上下関係、能力や経済力による格差による上下関係、差別関係の方がそれに従っていれば間柄を確認しやすいのかもしれません。
では、「友」という間柄とはいったいどういう間柄なのでしょうか?少なくとも上記の関係ではないことは確かです。そして、主の命じる「互いに愛し合いなさい」を実践できる間柄でもあるようです。この友となること、これは、これから私たちが学び、考え、この世に作っていくべき、間柄ではないでしょうか?