聖書 ヨシュア記10章1~43節(朗読40~43節)
   マタイによる福音書2章13~15節
説教 平和の共同体の心得「救いは武力によらず」

 「救い」とは人が支配から解放されたり、生を保障されることだとするならば、それらは武力によらず、神の業であるということを聖書は語っていると解釈できます。
 本日のヨシュア記には、カナンの地の原住民アモリ人の5人の王の軍勢が連合して、イスラエルの軍と戦いますが、住民は一人残らず、滅ぼし尽くされたとあります。これは酷い。いくら神といえども。しかし、よく聖書を読んでいくと、「主は天から大石(雹)を降らせた」(11節)とか自然災害が有利に働いた記述があったり、13節には、日がとどまり、月は動きを止めるという時間が停止するという奇跡が生じたりしたことが記されているのです。そして、「主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは後にも先にもなかった。主がイスラエルのために戦われたのである(14節)」と記されています。イスラエルの民が生き続けるには自然の力や更にそれを支配される主の奇跡が重要であるということがここの箇所から私は読み取ります。平和に暮らすことに、重要なのは武力ではない、神の業だということでしょう。
 本日のマタイによる福音書には赤子のイエスのヘロデ王に命を狙われるとき、主の天使が父親のヨセフに夢で告げます。「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」。
 武力に対しては、神の業が対抗する。それは自然現象であったり、時間が止まるという奇跡、暴力に対しては逃げること、こういう非武力的な戦略があるということです。
 救いには武力は必要ありません。神の業に頼ると良いと思います。もちろん、自衛には武力は必要ありません。これも神の業に頼るとよいのでしょう。
救いは武力によらず、神の業による。そう信じるものです。
皆様の祝福を祈ります。