イエスの軛を負う

 最近ニュースを聞きますと、親が子どもを殺したり、子どもが親兄弟を家ごと焼き殺したり、とんでもないことが起こっているように思いますね。オレオレ詐欺もその被害額が何百億円となっているようですし、自殺者は年3万人となってしまった。プールの排水溝が適当にされていたり、個人の守るべき基本のモラル、基本の社会のモラル、あまりに重要な大きなモラルがなくなってしまっているように思うのです。個人も社会も信用できなく不安に思うこの頃です。岐阜県でも、不正なお金を貯めていたようですし、自治組織といっても信用がなくってしまっている。日本の国も過去戦争を行ったし、現在も、自衛隊を合憲としようとしている。これはかしいとこです。
 本日の聖書の箇所はそういう時の道しるべとなると思います。
 「わたしのもとにきなさい」とイエスは言われますが、その前に、人間個人の罪、都市の罪を指摘なさっています。つまり、人と底に住む人々の社会全体が、イエスのみたところ、人が生きるにはどうしようもない、罪の中にあったということを語っています。自分の都合を中心において、主の愛については、省みようとはしなかった、そういう人と社会前が現実にあるときに語られたことばです。

さて、こういうとき、イエスはどういったか。結論からいいますと、
柔和と謙遜から学べ、ということを私たちに勧めたのです。語られたのです。
罪を犯したから、罪を正しなさい、罪を償いなさいとはとは言わないのです、悔い改めないから、悔い改めなさいとは言わないのです。

イエス自身はどうしたかというと、主を賛美しました。そして、柔和と謙遜から学べということを言い出すのです。
柔和と謙遜はイエス自身です。
柔和と謙遜とは、イエスの生涯に見られることでしょう。
処女マリアより生まれ、罪びとと交わり、神の教えを説き、自らは、私たちの罪のために十字架に付くという生涯を送られ、復活され、聖霊となって我々と共にいるイエスが、柔和と謙遜だというのです。
柔和と謙遜はイエスにある。高慢で頑なな、堕落した人間には、柔和と謙遜はない。柔和と謙遜はイエスにある。だから、そこから学べというのだと思います。
私たちが、このなんとも殺伐とした世の中で、真に人らしく暮らしていくには、柔和と謙遜が必要であるのでしょう。
柔和と謙遜のもとへ近づけば、疲れた者、重荷を負う者は休みを与えられる。柔和と謙遜のくびきを負えば、柔和と謙遜から学べば、安らぎを得られるとイエスは語っているのだと思います。
 イエス様は、ご自分のもとに私たちを招かれた上で、私たちの疲れも重荷もすべてご自分のもとに下ろすようにと招かれた上で、私たちに一つの命令を与えられます。それは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という命令です。
 軛というのは、旧約の時代もイエス様の時代にもあった、木の棒と縄で二匹の牛、あるいは二匹のろばをつなぐ農業用の道具です。ですから「わたしの軛を負いなさい」とは、イエス様が、「私の許に来て、私を信じ、私と共に生きていこう。疲れも重荷も私が共に担うから」とおっしゃってくださっているということです。
 また「学ぶ」とは、単に知識を得るということではなくて、むしろ体で確かめる、技術を習得する/体得するという意味です。ですから「わたしに学びなさい」とは、イエス様が、「私の十字架の恵みを確かめ、自分のものとしなさい」とおっしゃってくださっているということです。
 その上で、イエス様は、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」から、「あなたがたは安らぎを得られる」と約束してくださいます。「負いやすい」とは心地よい、あるいは味に関して、甘いとかうまいなどの意味を持ちます。「軽い」とは、ほんの少し、という意味です。あなたの疲れも、あなたの重荷も、あなたのために十字架に死んだ私が、共に背負っているのだから、むしろ疲れも重荷も喜びに変るのだということでしょう。

さて、この秘密を知っている者はだれでしょうか?25節にありますが、知恵あるものや賢い者には隠されて、幼子のような者に示されたとあります。これは父なる神が示されたこと、人知でははかり知ることのできない神の一方的な業なのでしょう。
それが、私たち信仰者なのでしょう。
わたし達はこの個人も社会も神から裁かれ、滅ぼされて同然の疲れと重荷を負って歩まなければならない闇の中に暮らす者です。しかし、同時にわたし達は神からイエスからその
闇の中で暮らす中で、休みと安らぎを得るようにできる道をも与えれていると思います。それは、柔和と謙遜の軛を負うこと、柔和と謙遜から学ぶこと、イエスの生涯、十字架の柔和と謙遜から学ぶことです。イエス自身から学ぶことです。

私たち信仰者には、隠された恵みが与えれています。闇の暮らしを喜びを持って暮らす秘儀だと思います。柔和と謙遜がそのキーワードです。
イエスの十字架に隠されている柔和と謙遜、教会の上に掲げられている、イエスの十字架柔和と謙遜、確かに、私たちたちすべての人が柔和と謙遜を身に着けていれば、怒ることなく、戦うことなく、偽ることなく、殺すことなく、平和に暮らしていけるように思います。








親子の間で殺しあったり、個人のモラルがどうかと思われる事件¥が多くありますね。現代の社会は、特に日本は、お金を中心とした社会になっているようです。経済というのは、そもそも悪い者ではなく、救済の道を示す者です。お金は人を助けるためにあるわけですよね。しかし、そうならないでいることが多い。無駄にお金を使ってしまうことが多いのですね。また、自分の欲望のためにお金を使ってしまったり、間違った使い方を人間はしている。そうならないように考えて、行動するのが、人間なんでしょうけど、どうもうまくいっていない。政治家はそういうことを勉強しているから、救いの道にお金を使うという名目を必ず挙げる。弱者を助けるということを言いつつ、イラクに自衛隊を送ったり、自衛隊を合憲あつかいできるような憲法に変えようとしている。しかし、それは大義名分は弱者を助けるために軍備を強化するというが、軍備で弱者は救えるか、弱者必要なことは、周囲の方々から、大切な人としてどれだけ関わってもらうかという一つであろう。それがあれば、いいのだ。イエスはそのことを言いたかった、人を大切にしていこう、どんな人ともともとなろう。
 しかし、イエス様は、ご自分のもとに私たちを招かれた上で、私たちの疲れも重荷もすべてご自分のもとに下ろすようにと招かれた上で、私たちに一つの命令を与えられます。それは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という命令です。
 軛というのは、旧約の時代もイエス様の時代にもあった、木の棒と縄で二匹の牛、あるいは二匹のろばをつなぐ農業用の道具です。ですから「わたしの軛を負いなさい」とは、イエス様が、「私の許に来て、私を信じ、私と共に生きていこう。疲れも重荷も私が共に担うから」とおっしゃってくださっているということです。
 また「学ぶ」とは、単に知識を得るということではなくて、むしろ体で確かめる、技術を習得する/体得するという意味です。ですから「わたしに学びなさい」とは、イエス様が、「私の十字架の恵みを確かめ、自分のものとしなさい」とおっしゃってくださっているということです。
 その上で、イエス様は、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」から、「あなたがたは安らぎを得られる」と約束してくださいます。「負いやすい」とは心地よい、あるいは味に関して、甘いとかうまいなどの意味を持ちます。「軽い」とは、ほんの少し、という意味です。あなたの疲れも、あなたの重荷も、あなたのために十字架に死んだ私が、共に背負っているのだから、むしろ疲れも重荷も喜びに変るのだということでしょう。
 もちろん、私は、皆さんが背負っている疲れや重荷が、今日を境にとたんに無くなるなどと言っているのではありません。そんなことは有り得ない。しかし、イエス様が私たちの日常の疲れも重荷も共に担ってくださっていることを知るなら、何より私たちをがんじがらめに縛りつけ、のしかかり、滅ぼそうとしている罪が、イエス様の十字架の故に赦されていることを知るなら、喜んで立ち上がることができるのではないか、罪と戦う勇気が新しくされるのではないか、そう思います。いや、もし、私たちがそれでもなお、疲れ果てて呻き、重荷を背負いきれないと涙する時にも、まとわりつく罪に力尽きる時があっても、イエス様が共にいてくださることこそが真実であるということを、思い起こしていただきたいと思います。
 このお恵みを歌った、有名な詩を一つ紹介して、説教を閉じます。アメリカのマーガレット・F・パワーズという人が書いた「Foot Prints/足跡」という詩で、ご存知の方も多いかもしれません。

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。 
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。 
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 
私は砂の上のあしあとに目を留めた。 
そこには一つのあしあとしかなかった。 
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのですか? 一番あなたを必要としたときに、 あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません。」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。足跡が一つだった時は、私があなたを背負って歩いていたのだ。」

私たちの主、イエス様がこのような方なので、私たちは詩編23編の祈りを自分の祈りとすることができるのだと思います。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」。 

「不幸だ」、あるいは「陰府にまで落とされるのだ」と言われているのは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムという3つの町です。これらはいずれも、ガリラヤ湖の北にある町です。カファルナウムについては、イエス様が「自分の町」と呼んでおられます。コラジンとベトサイダは、カファルナウムにごく近い町です。イエス様が伝道を開始なさった時に、その中心となった地域の全体を指していると考えてくださると良いと思います。
 コラジンとベトサイダに比較されているのは、ティルスとシドンです。この2つの町は地中海沿岸の非常に栄えた港町でした。エゼキエル書26章から28章までを後でお読みくだされば良いと思います。ティルスについて、預言者エゼキエルを通して、神様が言われた言葉を1つだけ紹介しておきましょう。「主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ」(エゼキエル28:2)。ティルスとシドンの人々は、自分の町の繁栄を誇り、貧しい人を虐げ、殺すに至りました。それは、自分たちを神とする思い上がりです。神様は、それ故に、この2つの町に裁きを宣告なさいました。
 カファルナウムに比較されているのは、ソドムです。マタイに先立って読んだ、創世記19章に、ソドムとゴモラという町が神様によって滅ぼされたという出来事が記されています。ソドムとゴモラの罪が非常に大きいという叫び声を神様が聞かれたこと、実際にアブラハムの甥のロトを訪ねてきた神様の使いをソドムの人々が殺そうとしたことが、その前後を読んでくださると、分かっていただけると思います。
 コラジン、ベトサイダ、カファルナウムという3つの町は、ユダヤの人々の心に深く刻まれていた、神様を神様とせずに滅びを招いた古代の町よりも、罪が大きいと、イエス様はおっしゃっておられます。それは、イエス様の御業を正しく受け取らなかったからです。病気が癒されるという評判が立てば、人々はイエス様のもとに病人を連れてきます。悩み苦しみが解決されるという評判が立てば、人々はイエス様のもとにやってきてそのお話しを聞きます。しかし、そのようなイエス様への接し方は、あくまでも、自分の望みを叶えて欲しいということに過ぎません。イエス様はもっと根本的に違う仕方で、人々が、ご自分のもとに来ることを望んでおられます。