平和な共同体形成の心得、イエスの十字架の贖いを信じる 神はすべての民族を祝福されている。 本日の聖書の箇所から、旧約聖書の示すメッセージはこれだと気づきました。 そして、今日、私たちはこの聖書の箇所から全人類が平和に暮せるために示してくださったイエスの業を知る恵みに与っています。なんと言う恵みでしょうか、感謝する次第です。街では初売りで喜ばしい売り物や福袋や景品やくじなどが出ておりますが、聖書から読み取れる神の恵み、イエスキリストの十字架の贖いの恵みを体験するくらい、大きな恵みはないと思っています。 さて、聖書の箇所を見てまいりましょう。 9章18節~19節 箱船から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。 この3人はノアの息子であって、全世界の人々は彼から出て広がったのである。 ノアは全世界の人々の先祖となったとあります。アダム以来、2回目の人類の始まり、再出発の人の誕生です。 さて、そのわれわれ人類の大先輩は・・・といいますと。 20節~28節 「さて、ノアは農夫になり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアは葡萄酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。 「カナンは呪われよ。 奴隷の奴隷となり、 兄たちに仕えよ。」 また、言った。 「セムの神、主をたたえよ。 カナンはセムの奴隷となれ。 神はヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)、 セムの天幕に住まわせ カナンはその奴隷となれ。」 ノアは、洪水の後、350年生きた。ノアは950歳になって、死んだ。 と、書かれている次第です。 さて、この箇所では、何が問題だったかを考えてみたいと思います。 ①ノアの醜態 農夫になり、ブドウ畑を作った。ここまでは良かったですね。美味しい、葡萄酒もできた ことだったのでしょう。しかし、あるとき、ノアは葡萄酒を飲んで酔ってしまい、判断と かできないくらいになって、天幕の中で裸になっていました。 酔って裸になるのは、ここはまずかった点でしょう。ノアの醜態です。スマップの草薙さ んが酔っ払って公園で裸になったことがあるようですが、それに似たような感じだったの でしょう。 ②ハムの心(豊穣信仰に伴う性的欲求の乱れ) カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。 とあります。一見、何の問題はないようですが、注解書や牧師の解釈をみますと、性的に 問題のある行為だったのではないかという指摘があるところでもあるようです。 カナンの父、と「カナン」が出てきます。このカナンは、ソドムとゴモラがあった、カナ ンです。その先祖(血筋を引く、性質を生み出すと考えてもいいのかもしれない)となる ハムだということを、示唆しているのではないかと考えてもいいのかもしれません。カナ ンは五穀豊穣の神バール神を信じる経済中心の地域と考えた方がよいのでしょうか。そこ に、悪習があったようです。男の旅人を町の人間が集団で襲って犯すことが慣わしになっ ていたというのです。ということは、ハムのこのとき、『父ノアの裸を見た』ということは、 ノアの裸を、犯す対象として見た、というように解釈してよいのかもしれません。いやら しい心で、性欲をだけ満たす好色の心で、弄ぶ軽蔑の心で、ノアの裸を、見たのかもしれ ません。それ故、『父ノアの裸を見た』、と書いて、『裸になってしまっているノアを見た』 とか、『には、酔っ払って、裸になって醜態を晒している父ノアを見た』とは書かず、『 ノアの裸を見た』しかも『父ノアの裸を見た』というように『ノアや父を見た』という 表現ではなく、『裸を見た』という表現になっているのかもしれませんね。 ハムの心には、好色があって、しかも、同性に対する好色で、近親でも抑えることができ ない者であったのかもしれません。好色が強く、同性愛者で近親相姦願望があったのかも しれません。カナンの父ハムの心には豊穣信仰に伴う性的欲求の乱れ) ③ノアのカナンに対する呪い 実際、ノアの末息子ハムのしたことを知って、ハム自身ではなく、ハムの子供カナンを呪 います。ハム自身もしかして同性愛者だったかもしれないことを偽って子を作った行為に 腹を立て、そのように生まれたカナンを呪ったのかはわかりませんが、ノアはカナ ンを呪うのです。ハムではなくカナンを呪う。 本日の聖書の箇所から、以上3つの問題点を引き出しました。酩酊、性的乱れ、呪い、これらは平和な共同体形成には支障になります。 平和な共同体形成には、酩酊なく、性的乱れなく、他者を呪わないことが重要だと思われます。 人類、ノアの時代からどれ位経ったのでしょうか。5000年以上経っていると思います。 しかし、この平和でない人類の始祖、問題だらけの人類の始祖、酩酊し、性的に乱れ、呪いをかける人類の始祖。そして、わたしたちは、争いや差別や嫌がらせの中に暮しています。自己中心で、我侭な人間のためです。言うことを聞けない人間がなんと多いことかと思ってしまう現代でもあります。 ゆえに、平和な共同体形成の心得として、酩酊しない、性的に乱れたことはしない、他者を呪わない、という心得をわたしはこの聖書の箇所から引き出すことができ、本日の説教を終わりとしたいところなのですが、実は、他の牧師がどういうような説教をしているのか、見てみました。今はインターネットがあって、説教を公開してくださっている方がいらっしゃるんですね。日本キリスト教団中渋谷教会の及川信牧師(名誉牧師佐古純一郎)なのですが、その方の説教は深い洞察があります。 及川牧師はここの聖書の箇所を、家族の愛とその破綻、また、赦しと和解の希望の物語として読むことができるといいます。転じて、共同体の中での愛の破綻、また、赦しと和解の希望の物語として読めるとも言えるようです。 ノアは酔いが覚めた時、自分の犯した罪の重大さに気づき、また末の息子がしたことを知りました。そして、「カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」と言い、最後にまた、「カナンはセムの奴隷となれ」と叫んだ、そのことについて、兄たちに仕えよ。と言われます。この奴隷となること、イスラエルの世界では、実は、安息日に礼拝に与るという決まりがあったというのです。このノアの叫びはカナンを呪ったのではなく、ハム一族が他の兄弟と平和に暮していくための処方箋だった、ということなのです。 つまり、共に同じ神に礼拝を捧げること、これが、民族間の不和をなくす道だと、ノアは考えていたのだと思います。ノアは、「セムの神、主をたたえよ」と叫んだことは、これが、われわれノアの一族を救う道だ!と気づいたことでもあると思います。 また、ヤフェトについては、神様が「セムの天幕に住まわせる」とあります。生活を共にするという意味と同時にセムの神、主を礼拝することにおいて共に生きるという意味を暗示していると思います。 つまり、ここには一つの家族の中の大きな罪が描かれていますが、同時に、その罪の認識と悔い改め、そして、赦しと和解の希望が語られているのです。罪ある家族、団体、共同体が平和になるためには、ひとつの同じ神を礼拝することにおいて、実現する、人の呪いが呪いではなくなる、そのようなことをここでは伝えているようにも解釈できると思います。 家族とすべてが一つの天幕の中で、唯一の神を礼拝する。全人類が共に安息日を覚え、聖として守る。そして、主の創造の御業、救いの御業を讃美する。そういう日が来る。そういう終末的な希望がここに語られているのではないか?と及川牧師が語るわけです。 セムの子孫であるアブラハムは、カナン人を含む全世界の氏族に祝福をもたらすために選ばれたのですし、系図的にはアブラハムの子である主イエス・キリストは、マタイの福音書で言えば、「自分の民を罪から救う」お方として女の体を通してお生まれになったのですし、それは、ガラテヤの信徒ヘの手紙に記された言葉によれば、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出す」ために、十字架に架かって死んで下さったのです。パウロは、そこでこう言っています。 「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された、“霊“を信仰によって受けるためでありました。」 すべての人類の罪に対する呪いを越える祝福をもたらして下さるのは、神の独り子主イエス・キリストだけです。この方こそ、セムの神主の独り子であり、祝福の源であり、私たちが讃えるべき方であり、この方を信じる信仰によってのみ、わたしたちは罪の赦しと新しい命という祝福を受けることができるのです。そして、そこにのみ、真の平和があるのです。キリストにおける神様との平和があるからです。私たちは私たちのために「呪い」となって死に、復活してくださった主イエス・キリストを讃えて、真の祝福を担い、一人でも多くの人々と分かち合うために世に派遣されたいと願います。 と結んでおられます。聖書の解釈は本当に難しいと思います。それだけに学び続ける価値がある物だとも思います。今日はこの及川牧師のメッセージにアーメンと言わせてただ来たいと思います。なぜならば、わたしたちの罪を赦してくれた主イエスを信じる信仰によってのみ、家族の平和、家族だけではなく、さまざまな共同体(職場、学校、サークル、地域社会、国、人類など)の共同体の平和がが実現するというメッセージあからです。わたしたちの罪を赦してくれた主イエスを礼拝することによってのみ、それらの共同体の平和が実現するという回答を与えていただいているからです。平和の共同体はイエスの十字架の贖いを信じる共同体、イエスの十字架の贖いを礼拝する共同体に実現するという回答を与えてくださっているからです。人類全体の平和が実現可能だという希望!なんと素晴らしいことを教えて下さっていることでしょう。 もう一度結びを読みたいと思います。 すべての人類の罪に対する呪いを越える祝福をもたらして下さるのは、神の独り子主イエス・キリストだけです。この方こそ、セムの神主の独り子であり、祝福の源であり、私たちが讃えるべき方であり、この方を信じる信仰によってのみ、わたしたちは罪の赦しと新しい命という祝福を受けることができるのです。そして、そこにのみ、真の平和があるのです。キリストにおける神様との平和があるからです。私たちは私たちのために「呪い」となって死に、復活してくださった主イエス・キリストを讃えて、真の祝福を担い、一人でも多くの人々と分かち合うために世に派遣されたいと願います。