創世記5章1節から32節
ヨハネの福音書11章25節から26節
平和な共同体形成の心得 永遠に続く

 現代社会を行きぬくために必要なことは、将来への希望でありましょう。現代日本をみて将来に希望が見出せますでしょうか。日頃の暮らしにおいて希望が持てますでしょうか。
今日衆議員選挙がありましたが、マニュフェストをみますと、子育て・教育の問題、年金の問題、地方分権の問題、平和憲法の問題、農業の問題、外交の問題、失業者の問題、自殺者の問題、インフルエンザの問題、貧困の問題、社会保障の問題、差別や争い、公害、など問題だらけの世の中に思えますが、そうしてみますと、何か希望が持てない感じもします。裕福で治安の一番いい国ではありますが、一人一人の絶望たるや、計り知れないものがあるかもしれません。
 聖書は、闇の中に輝く光を示している書とみるのがよいと思います。苦しみからの救い、不自由から自由へ、差別から尊重へ、争いから平和へ、悲しみから喜びへ、憎しみ無視から愛へ、と逆転業が起こることを示している書と私は捉えています。聖書を読むたびに、わたし達の暮らしの希望を確認できていければ、とても幸いだと思いますね。
 平和な共同体形成の心得を聖書から学んでまいりました。今日の聖書の箇所から平和の共同体形成について、学んでいきたいと思います。本日の箇所は系図です。アダムとエバから始まって、ノアまでの系図が書かれています。アダムは930歳まで生きたとか、アダムの子どものセトは912年生きたとかとんでもないような数字ですね。エノクという人については65歳でメトシェラを儲け、その後300年神と共に歩み、息子や娘を儲けた。そして、「エノクは365年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」とあります。エノクハ死ななかったのです。
さて、このような事柄がなぜ書かれたのかを考えますと、この神と共に歩もうとしている、方々を励ましたり、希望を与えたりするためではなかったと想像するのです。この部分が書かれたのは、イスラエルの民がバビロンへ捕囚されて苦しい囚人の生活を送っていたさなかか、あるいは、囚人であったイスラエルの民がやっと解放されてエルサレムに戻ってきたときあたりかもしれないと言われています。ですから、この創世記を書いた人達、多くは祭司だったろうと思われていますが、当時のイスラエルの民は、囚人の状態か、囚人から解放されて、これから、新しく自分達民族の共同体を作っていく初期の状態にあろうと思われ、いずれにしても、混沌として方針が見出せない状態だったようです。
そのようなとき、行き先不安の真っ只中、彼らは、ヤウエイの神が自分達の先祖をどう導いてきたのか、回顧し、聖書として記され始めたのでしょう。

この箇所を見ますと、おそらく、これを記した聖書記者達の時代には、短命であったり、障害があったりするような者が多かったのかもしれません。民族の絶滅・・・このような心配がかなりあったのではないでしょうか。しかし、祭司である共同体指導者達は、これまでのイスラエルの先人たちのことを思い起こしていた。伝承で聞いていた事を思い出して、創世記からの歴史5書を編纂していったと思われます。ヤウエーによって守られ、祝福され続けてきた、自分達の歴史を、記述し出したのでしょう。
そういうことで創世記には闇の中に光が生じ、無から有が生じ、神への背信から、祝福を受けるものへと、変わりえることをしめしていると思います。

どんな事があっても、神様が絶対に導き、守り、祝福の道を歩かせていただけるということを聖書記者も実感していき、それを頼りに捕囚の暮らしを生き残ったのかもしれません。聖書記者たちは冷静に自分達の先祖の歩んだ歴史をみたとき、イエスラエルの民とは神に対して反逆する民であったと気づいたのかもしれません。それ故、いつも、滅ぼされても良い運命を負いながらも、神の憐れみと計り知れない恵みによって生かされ、祝福の歩みを与えられてきたとも気づかされたのかもしれません。
そして、それが、アダムとエバの神の背信から始まって、ノアの時代の洪水、カナンでの暮し、エジプトにとらわれていた時、出エジプトのさすらいのたび、カナンでの戦い、定住、イエスラエルの建設、陥落、バビロン捕囚、そして解放、それらの苦難と波乱万丈の時代を生き帯びてきたのは、ヤウエイの神の存在を考慮に入れなければ、理解できないことであったのでしょう。

その関係の最も分かりやすい事件がイエスの十字架の出来事でした。
自分の作り主を殺す、自分の海の親を殺す、お世話して下さって、愛して下さって、身も心も捧げてくださる庇護者を殺す、まことに、恩も義理も人情もあったものではありません。そういうものがイスラエルの民であり、人間であり、わたしなのです。

そういうものですから、本当に悔い改めていかなくてはなりません。なぜ、十字架につけたかをよく考えて、そういうおかしい、的外れなことはしないように、良く祈り、復活して聖霊となっている、イエスの力を借りて、共にあゆんでいかなくてはなりません。

しかし、人間が神に対してどうあれ、人に対してどうあれ、神の存在は不滅です。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は決して死ぬ事はない」と語っております。イエスを信じる者は復活します。
神の共同体は旧約の昔から現代までどんなに災難にあっても困難や戦争にあっても、負けても、存続してきました。これはどういうことをしめしているのでしょうか。恐らく、神の作る共同体は永遠だという事でしょう。

わたしたちは現代の様々な問題を思うとき、人類はもう滅びてしまうんじゃないかと思っているんです。もうよのおわりではないかと・・・でも、聖書をみていきますと、神の作る共同体はどんなことがあろうとも滅びず、永遠に続くという結論に導かれていきます。ここに希望がありませんか、自由がありませんか、喜びがありませんか、感謝がありませんか、ハレルヤ、希望があり、自由があり、お炉媚があり、感謝があるのです。
お祈りいたします。