創世記50章22~26節、ルカによる福音書1章67~80節 平和の共同体の心得 顧みてくださる主 本日で創世記を終えます。ヨセフ物語の最後です。 水野隆一という聖書学者は、ヨセフ物語の解釈については、それぞれが解釈して良いと言っています。実に私好みのことを言ってくれて嬉しいなあと思います。 ここのヨセフ物語から私が学ぶべきことは、「神は必ず、顧みてくださる」ということです。誰を顧みるかというと、ヨセフの兄弟とその子供たちのことです。 ヨセフといえば、当時エジプトの支配者となり、兄弟やその家族を養っている権力者です。ヨセフの兄弟たちは世界で最高級の暮らしができるとしても、それが、11番目の弟の世話になってのことと思っては、手放しでは喜べない状態なのではないでしょうか。しかも、その兄弟たちは以前、ヨセフを抹殺しようとした者たちです。彼らはヨセフに仇を恩で返されたのです。このことは、恩を仇で返されるより、屈辱的な思いではなかったでしょうか。権力者の傘下に入らずば暮らしていけないような、弱く、いたらなく、屈辱的な暮らし。そういう暮らしを送る者がヨセフの兄弟であり、彼らを神は顧みるというのです。顧みるとは、「訪れる」とか「報いる」という意味もあるそうです。 神様は顧みて何をするかといいますと、ザカリアの預言から知ることができます。バプテスマのヨハネが預言者として、この地に遣わされたことが書かれていますが、それと共に神様が民に訪れて何をするかが、示されています。68節~75節にありますが、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる予言者たちの口を通して語られたとおりに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を憶えていてくださる。これは父アブラハムに建てられた近い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」78節後半から79節「この(神)の憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に坐している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」 ヨセフの兄弟たちのように、権力者の傘下に入らずば、暮らしていけないような、弱く、いたらなく、屈辱的な暮らしを送らざるを得ない者。これって、自分のことではないだろうかとふと思いました。こんな自分を神様は顧みてくださるのか、そう思うととても嬉しく、涙が出てきそうになりました。