創世記48章12~48章22節 マタイによる福音書20章1~16節 

説教題は『神の祝福は世の慣例を超えて』→『祝福があふれている』 

福祉の職場におりますが、最近、ある職員が辞職しました。上司からのパワハラが原因です。利用者には感謝されているのですが、結構、本当のことをずけずけいう事もあって、上司から問題視されていたようです。12月25日出勤した朝突然、同僚が左遷を命じられ、その朝から自宅待機にさせられることになりました。それを原因に辞職しましたが、上司たちは辞めるなら辞めるがいいのようなことで、ご本人を留めようともしませんでした。上司のパワハラではないかということで、弁護士と相談して今後、裁判に提訴するかどうか考えているところです。力による嫌がらせ、暴力ではないかという問いがなされています。

また、別な話ですが、職場には、何回教えても覚えないとか、口ばかりで仕事をしないとか、能力ないということで嫌われている新人職員がおりまして、もう、55歳を超えているのですが、何人かの利用者からも、ダメだと言われていますが、その方は、在籍させられています。職員からは、自分の方が仕事が出来るのに同じ給料をもらうのが癪に障ると文句が出ています。福祉現場ではいろいろ問題を抱えながら歩んでいるわけです。

今日の聖書の箇所には神様の祝福について書かれています。創世記にはエジプトでヨセフの子ども兄弟にイスラエルから祝福を受ける儀式をするのですが、長男ではなく次男に本来長男が受ける祝福を授け、本来慣習的に祝福される長男には次男が受ける祝福が授けられました。本日のマタイによる福音書は「ぶどう園の労働者」のたとえです。天の国の例えです。「ブドウ園の主が労働者を探していた。9時と12時と3時と5時頃に労働者を見つけ、仕事をしてもらった。夕方に賃金を払ったのだが、全員に同じ金額を支払った。朝から働いた者から不満の声が上がった。しかし、主人は言う。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオン(今の約1万円)の約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしは最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしえはけないか。それとも私の気前良さを妬むのか。』このように後の者が先になり、先のものが後になる」と主人は語る」

一見おかしな話ですが、神さまからの祝福や恵というのはそれほど大きいのではないでしょうか。陽の光や雨、空気、水、時間、その他天の星、宇宙はすべての人にある程度同様に与えられているものでしょう。神様もそういう存在、もっと大きな恵みをすべての人に与えて下さる方だとしたら、上記のことも理解できると思います。人間は神から与えられる祝福を限定化して、本当に必要な人に与えナックなってしまうようなことさえしてしまう。しかし、神様からの祝福、生きるとか命とかいうようなものは、仕事の出来不出来、やったかやらなかったかで、決められるのもではなく、どんな人も神様からの祝福が与えられているということをこの箇所では伝えたかったのだと思います。神様がどんな人をも同じように祝福してくださっていると思うと、また、職場での出来事について思うと、なんだか自分で好き嫌いで、祝福を決めてしまうようでは、自分を含めて、いけないと思いますね。それぞれの事情があるわけですから、その事情を知り、上司は部下のことを理解し、部下は上司のことを理解する、あるいは、職員同士でお互いについて理解し合う、そういう努力が必要でしょう。神様の祝福はどんな人にも与えられる、そう信じ、相互理解にあたるとき、パワハラや能力のない職員への不満がなくなっていくことさえ、あり得るのではないかと思っています。もちろん、そういう問題の解決は、私の努める福祉施設だけではなく、どんな共同体でも起こり得ることだと思っています。

みなさまの幸いを祈ります。