共同体を形成するのはとても難しいと思いませんか。 家族でもいいです。 職場でもいいです。 サークルでもいいです。 ボランティア団体でもいいです。 もちろん、教会も共同体ですね。 愛のある場であるはずの教会でさえ、共同体として、継続していくことの難しさを、 みなさんは感じていないでしょうか。 旧約聖書をどう読むかを考えて見ますと、神が創る、共同体形成(教会や伝道所、集会等)を学ぶ教科書ととらえた方がよいと思っています。ですから、旧約聖書から共同体形成のヒントを学んでいき、これから、この集会の共同体を形成していきたいと思っています。 また、そのことは、教会だけではなく、この地上にあるさまざまな共同体形成の参考にもなろうか、いや、参考どころではないでしょう、要になる考え方が,含まれていると思います。天地は神が創られたのですから。 さて、本日の箇所は夫婦の暮らしの問題です。 夫婦が神様から与えられていた約束。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」というようにアダムに言われました。女はその後に創られます。アダムはこのことをエバの伝えておいたと思われます。 問題が出て来ます。蛇の誘惑です。蛇は、聖書には、「野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」と言われています。狡猾な蛇の罠がしかけられていきます。蛇はアダムには誘惑しないで、蛇に誘惑をまず、かけるのです。質問の仕方がまた巧妙です。 「園のどの木からも、神は食べてはいけない、などと神は言われたのか?」と言われます。 これは、心理作戦ですか、巧妙です。「食べていい」ということばを引き出させるための問いかけでしょう。その蛇の質問にエバは興奮気味に答えるようです。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と蛇に言います。 すると、蛇は、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」。この誘惑は、また、わたしたちが陥る誘惑です。まあ、このくらいなら大丈夫だろう。とか、しかし、そのちょっとした油断があとからとんでもない結末へと結びつくことが、ただ、あります。それが本日の聖書の今後の箇所で示されているところですね。 とくに主から与えられた決まりを守ること、たとえば、10戒とかイエスがいう愛し合いなさい、敵を愛しなさい、呪わず、祝福を祈る、これらは、間違っていない。否定してはいけな、いということでありましょう。 さて、エバは、蛇から言われたものだから、自分の目で、木を確かめます。すると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように、唆していた。 私たちは、今の自分より、賢くなりたいと思っていしまいます。認知症が嫌われるのも、賢さへの飽くなき魅力に取り付かされているからなのではないのでしょうか。 その誘惑にエバは負け、ついに、食べてしまいました。一緒にいた男にも渡したので、彼も食べました。アダムにとって女は助け手、出会いで感動したのはアダムでした。女の勧めに載るような舞台設定はもうできていました。たった一人の相談相手でもあったわけです。アダムは女のいいなりになるのは目に見えていました。蛇の計算高さがよく分かります。 さて、善悪を知る木から実を食べてしまいましたところ、二人の目は開け、自分達が裸である事を知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 その日、風が吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の葉の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聴こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしははだかですから。」 善悪を知る木から木の実を食べる事で、恥ずかしいということや、善悪ということを知ることができるようになりました。そして、自分が神の命令を破った時、神の前に出たり、顔をあわせることを避けて、神のいないところに隠れる行為をしてしまう事が起こります。神を否定しては、礼拝にはでられなくなりますね。神の前には出られなくなってしまいます。神との約束を守らないと、どうも、ひそひそ、してしまいます。堂々としていられなくなりますね。職場などでも遅刻したり、無断欠勤したりすると、小さくなってしまうのと同様ですね。 さらに神は言われました。 「お前が裸である事を誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 アダムは答えた。 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのだ」女は答えた。「蛇が騙したので食べてしまいました」 ここでは言い訳が並べ立てられています。アダムは女のせいで食べてはいけない実を食べたといい、女は蛇に騙されたので食べた、と蛇のせいにしてしまいます。 わたし達は、いいわけをしてしまいますね。遅刻の時も、ちょっと、用事ができてなど言うのですが、実は寝坊しただけだったりですね。正当な理由があればどうどうと休みます。都会って、ごめんなさい、とは言わなかったりすることもありますね。自己正当化をしてしまうように思います。 これらの事を受けて、主は、蛇と女とアダムに言われます。 主なる神は、蛇に向かって言われました。 「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものとする。お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に聞き従い、とって食べるなという木の実から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨と茨を生えいでさせる。、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る。」 このように蛇、女、アダムには苦しみの暮らしが与えられたのでした。 わたしたちの生活には、苦しみがありませんか。わたしはどこに行っても苦しみに出会いますね。どうしてだろうと思いましたが、この聖書の箇所をみて、罪の理由、それに伴う人の苦しみの理由を見出すことができるのです。しかも、それは、精巧に仕組まれたもので、人間業では決して避けることができない、罪と苦しみは人の宿命のように、思えるのです。 アダムとエバが犯した罪。神様の言うことを聞かない罪は、人間全体の罪です。ヨハネの福音書では『互いに愛し合いなさい』その他3つの福音書では、『神を愛し隣人を愛する』そういうことが出来ないのが人間である、ということを示されています。そして、サタンとの格闘の宿命、女は生みの苦しみ、男に支配される宿命、男は暮らしの糧を得るのに苦しむ宿命を負った、ということが示されていると思われます。 20節から24節は本日の聖書の箇所のまとめのようなところですね。 アダムは女をエバ(命)と名づけました。彼女がすべて命ある者の母となったからである。 ここから共同体が生まれていきます。人類最初の夫婦、人類初の共同体は一致協力して、神様がしてはいけないということをしてしまったのです。神への反逆。人類初の夫婦、人類初の共同体は、なんたる有様なのでしょう。 しかし、そういうアダムとエバに主なる神は、皮のころも作って着せられました。なぜでしょう。神が、神の意志で、生かしたかったからなのではないでしょうか。 そして、主なる神は言われました。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある。」 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく金の炎を置かれた。 これは神様が、人の命を預かるという意味ではないでしょうか。命の木は、人の命の木なのです。神はそれを滅ぼしたのではなく、エデンの園に残しておきました。この命の木はヨハネの黙示録22章に出てくる木です。御国にある木です。ここに人は死とともに生きる者となりました。 蛇のような神のようになるというサタンと闘いつつ苦しむ人間 生みの苦しみと男に支配される苦しみを負う女 生きるために労働の苦しみを負う男 そして死 人間の宿命を明確に神は示されたのでした。 アダムとエバの人類初の共同体へ与えられた苦しみです。 わたしは、この聖書の箇所になぐさめを見出すものです。それは、わたしたちの暮らしの中で共同体がうまく機能し続けるのを知らないからです。どこかに問題があり、スムースに機能していない感じがするからです。家庭も職場も地域も市も県も国家もその他の団体やグループも躓きがあるようです。そして、悩みや苦しみを伴っています。そういう現実はなかなか受け入れられない、ですが、今日の創世記の箇所をみますと、ああ、始めの共同体から、神の命令を守ることができなく、苦しみを与えられているのではないか、それならば、今苦しいのも当たり前だ、というように、苦しみを受容することができるようになると思うのです。 その共同体での苦しみ、わたしの所属する共同体での苦しみはそんなに耐えられないようなものではありません。苦しさを乗り越えていける、むしろ、喜びさえ、感じています。 それは、なぜでしょうか? ナザレのイエスの十字架の苦しみが代わってくれているからでしょうか。 アダムとエバをエデンの園の外へ追い出した神が我々の生を心配し、配慮して下さっているからではないか、神の命令を守れない人間でも、天国へいけるように、イエスの十字架をわたし達のために、与えてくださったからなのではないか、と思えるのです。聖書を読んでいけば,創世記にも出エジプト記にも歴代記、列王記にも関わっているではありませんか。 ああ、有難や、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の神。この3位一体の神がわたし達とともにいて下さると思うとき、与えられた共同体で互いに愛し合う、苦しみを分かち合うという、共同体の厳しさを、引き受けて、 ええ、喜びをもって、引き受けていきたいと思います。 主と共にあるならば、苦しみの後に必ず、喜びが与えられると信じるものですから。