創世記37章12節~36節
マタイによる福音書8章14~17節 
説教 平和の共同体の心得「思ったようにいかない時こそ」

 知人に勧められて、私インターネットでFace bookのをやっているのですが、そこには、いろいろな人との情報が交流ができるようになっています。そこで、ある人が、自分がもし延命処置しなくてはいけなくなった場合、例えば、心臓マッサージとかはいらない、という、DNRという(心肺蘇生拒否)のメモをいつも肌身離さず、もっているというご婦人を紹介されていました。タイトルは「理想の死とは」という題でした。延命をされたくない、障害を残してまで生きたくない、という気持ちは分かります。そうした人もいらっしゃることも確かです。しかし、人の生死は、自分の思うようにいくかと思えば、大抵そうは行かない事が被いと思います。この方は尊厳死協会にも入会されていらっしゃるかたです。一人一人生死が異なるのは当然のことです。自分の死をできるだけ人に頼らず迎えようと考えることもあるでしょうが、他人の死に付き合うことも必要になる場合もあるのではないかと思うこともあります。ただ、「理想の死」はこうだと決めることはできないのではなかと思っています。

日本の諺にも災い転じて福となる、とか、万事塞翁が馬、という諺もあり、この世は何が起こるかわからない面があり、思い通りに行かないほうがいい場合もたくさんあることは、洋の東西問わず、言わずもがな事柄でもあります。

聖書は初めから、意外性に飛んでいます。創造物語自体、自然を神と崇める方々には、なんともそっけない印層を与えるようです。神の一言によって、海や陸や太陽や星、草木や動物、人間さえもいとも簡単に作ってしまうとは・・・ある神学者によると、これは、自然を神として信仰していた地元の人々にとっては、大きなショックを与えたということです。その当時、人を生け贄として太陽の神様や自然の神様に捧げる慣わしがって、また、その犠牲になって捧げられることを喜びとしていたらしいですから、そういう人々へ、ことばをもって示され、成し遂げられる、「あってあるもの」と言われ、目に見えない神の存在は、非常に以外で、そんなことってあっていいのかと、自分の立ち位置を脅かされるような事柄だったことでしょう。こと、信仰になればなおさらです。現代でも、たとえば、聖餐式だって、未受洗者に配餐したくらいで、目の色変えて、その牧師を免職まで追い込む私たちの日本基督教団です。いかに思い通りにいかないことに不満に思う人々が多いか、そういうものが、人間というものなのでしょう。人間の社会もそういう的外れなことをする人々の世です。

 また、聖書には人間の罪の歴史とその中に介入している、神との関りの歴史画書かれています。本日の創世記の箇所も兄弟のいざこざ、争いが書かれています。12人兄弟のヨセフが父親のイスラエルから特に愛される事を妬んでの11人の兄弟による殺害計画です。さすがにルベンやユダという兄の提言で殺すことには至りませんでしたが、兄たちはヨセフを井戸に落としてイシュマエル人に売りつけようとしたのです。しかし、兄たちの気づかないうちに見知らぬメディアン人の商人に助け出され、エジプトに売られてしまいます。兄たちは、父親にはヨセフが野獣に襲われたとうそをつきました。父親はそのことを知り偏愛のヨセフのことを嘆き悲しみます。そのことを知った兄弟はやり面白くなかったのではないかと思います。しかし、最終的にはこの家族にはヨセフと和解する奇跡がもたらされます。本日のマタイによる福音書には、イエスが多く人からの悪霊を追い出したり、多くの人の病いを癒したことが書かれています。ほとんどの人は、悪霊に取り付かれたり、病になったりするのは自分の希望ではなく、期せずしてそうなったことでしょう。

 神イエスは私たちが思ったようにいかない時にこそ働き、和解、平和、悪霊払い、癒しの人智を超える恵みの奇跡を行われるというメッセージを本日の聖書から受け止めることができます。そこに私は希望を見出す者です。「思ったようにいかないとき、神様が人智を超える恵みの奇跡を起こしてくれる!」

しかし、これは、もちろん、キリスト教に限った事ではありません。すべての暮らしの中でも実現できることでもありましょう。震災の被害、グローバル化される経済的搾取の問題、職業間に生じる格差の問題、平和を脅かす核の脅威と、軍備を持つ事で作ろうとする短絡的セクト的な平和主義、人権の問題など、たくさんの問題の渦の中にいる私たちです。

しかし、聖書はいいます。そのような中にあっても、主は人々と共に歩むということを語っています。足跡という詩をみなさんはご存知ですね。

あしあと 
 
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」 
  
マーガレット・F・パワーズ

また、それは、私のことを考えてみればわかることです。
小学校のころ往復7キロ歩いて学校に通いました。当時は歩くのがいやでした。しかし、そのお蔭で足が早くなって、中学の時800mで日本一にさせてもらったり、高校でインターハイ3位になったり、大学にも推薦で入れました。
大学で首の骨を折り、怪我をして障害者になりました。こりゃ、大変と思いきや、丁度、そのころ国際障害者年と言う事で社会から大事にされました。お蔭で、医療、福祉、介護、教育について勉強をするようになりました。怪我したお蔭でキリスト教にも触れる事ができ、洗礼を受け、牧師にもなってしまいました。
私は父親と仲が良くありませんでした。お蔭で自立心が養われました。
父親が亡くなったことで郷里に帰るきっかけができました。
精神科疾患の叔母を世話するのに、今まで培った知識、技術・精神が役にたちましたし、生業は言語聴覚士として得られています。牧師としても、気仙沼を中心に、鳴子教会、柴宿教会、今年は登米教会などへも行って説教させてもらえるようになっているわけです。

神さまはどんなときでも見離さないと言うことは、基本中の基本だということでしょう。
そしてフランチェスコの祈りもが現実のものになっているのでしょう。
主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かしてください。
侮辱のある所に、許しを置かしてください。
分裂のある所に、統一を置かしてください。
誤りのある所に、真実を置かしてください。
疑いのある所に、信頼を置かしてください。
絶望のある所に、希望を置かしてください。
闇のある所に、あなたの光を置かしてください。
悲しみのある所に、喜びを置かしてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

イエスの十字架と罪の許しも、絶望が大きなというか全く予想できない恵に変わりました。十字架のイエスが更に復活したということは、死から生へのまったく逆転現象が起こったということです。

今後、私たちに降りかかるであろう問題は、いろいろあると思います。自分たち人間の力で何とかしようと思うことはもちろん大切です。しかし、そう思うようにいかないのが現実でもあります。そういうときなのです。行きつまりに見えるところから、新たなことがはじまるのです。それは、聖書からみても分かるし、自分の暮らしからみても分かることです。こういうピンチの時、神様が何とかしてくださる、いや、何とかではないでしょう、私たちの予想を超えた素晴らしい事が、最後には起こると言うこと、と、そういう、神様が私たちについていることが分かるのです。私たちの予想を超えた素晴らしい事が、最後には起こると言うこと、と、そういう、神様が私たちについていること、それらを信じ、その恵に気づき、喜んで暮して生きたいと思います。

 皆様の祝福を祈ります。