創世記36章1~43節 ローマ10章5~21節 説教題:平和の共同体の心得「神は誰にでも救いをもたらす」 【悲惨な最中で】 最近、イジメ問題や虐待が報道されているようです。極最近には、アメリカのボストンマラソンで爆発があったと報道されています。イスラム過激派のテロではないかといわれていまして、「ジハード 聖なる戦い」の影響があるのではないかと周囲でうわさせれています。聖書からみるとこういう問題は昔からあったようです。気に食わない弱い人をいじめる人間、聖なる戦いと称して、虐殺をしていくことなどは有史以来存在していたのかもしれません。聖書ではアダムとエバの二人の子ども、カインとアベルのときからすでに問題とされていました。しかも、殺人というあるまじき結果に終わっています。人類の始まりにこんなに悲惨なことであったと思うとがっかりもしますが、この悲惨な人類でありながら、いままで歴史を培って生きてきました。このことは、何か不思議な命の継承があったと考える方が、聖書的だと思います。 【神は殺人を命じるか】 聖書は、神様と人類との関わりが書いてある書といっていいでしょう。旧約聖書と新約聖書が今のような聖書に仕上げられるまで1200年以上かかったであろうといわれていますし、旧約聖書だけでも1000年以上に渡って、言い伝えを、ピックアップして編集された書と考えられます。旧約聖書がユダヤ教の正典としてまとめられたのが、紀元後90年代とも言われています。旧約聖書は、時代時代によって異なる状況でしたから、ピックアップする言い伝えも、時代時代のヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人が生き抜くために書かれたとも考える事ができ、矛盾が生じても致し方ない、あった方が自然だとも思われます。 例えば、旧約聖書には、十戒があって、汝殺すなかれ、といいつつ、列王記などでは、神の命令で聖絶せよ、と神からの皆殺し命令がだされています。これはどう解釈するか考えてみましょう。恐らく殺人の頻発する時代において、イスラエル民族は、生き残りのために民族対立があり、殺人を犯してしまったのでしょう。神から「殺してはいけない」という絶対命令が出ていたのには間違いないが、そのときの殺人を正当化するために、「聖絶」と言う概念を持ち出したと思われます。これは、オーム真理教ではポア、イスラムではジハード、ハムラビ法典では罪の罰則行為などとして、日本を含む国々に有る死刑制度として、それぞれの地域、集団にあった習慣、慣例であって、決して神の命令ではなかったと思います。そういう時代に巻き込まれてしまったイスラエル民族の殺人行為を正当化するめに、そして、神が導き、祝福を受けるに値する民族であるという誇りを保つために、その当時の聖書編集者は矛盾を承知で、神から聖絶命令が出たという言い伝えを採用した、とも考えられるのです。神様は聖書にその記述を赦された、ということでもありましょう。聖書を理由に、殺人や戦争を正当化するのは誤りだと思います。聖書には、ある聖書編集者が戦争を正当化するために神を利用したことを示している書であるとも読めるからです。そして、何よりも十戒が基本だということは、聖霊によって私たちに示されていることです。 【経済が現代の神、豊穣の神】 そして、現在のイジメの問題も、シリアの内戦も、尖閣諸島や竹島の問題も、対立する人や集団を作って排除すべしと思ってしまう、という同じような問題でもあると思います。あいつはおかしい、気に食わない、いないほうがいい、という人間の判断が問題となるのでしょう。尖閣の場合は1895年に日本が見つけ、自分の領土だと決めたとされ、そこをもって、日本の領土だと主張しているようです。一方、中国や台湾はその主張を周囲の国々に相談もせずに勝手にやったと主張するようです。もちろんその裏には魚が取れたり、地下資源が豊富だったりとする、経済優先の考え方があって、裕福になりたいという欲望が絡んでのことでもあるのでしょうけれども。 【神は人の命を与える神】 さて、本日の聖書の箇所は、神に選ばれたとされるイスラエルの民以外の系図が示され、その歴史が書かれています。新約では異邦人の救いが示され、結局万人が救われるという事が書かれています。救いとは命の救いです。聖書には万人の命の救いが書かれています。特定のものだけが救われるのでない、すべての人間が救われる、聖書に「聖絶」など書いているのは、聖書記者の都合だ、とも、同じ聖書から判断する事もできるのです。 【神なきと思う人間の虚無はすでに負けている】 私たちの争い、イジメ、殺人などは、相手に対立し、排除しようとする考え方が原因だと思います。それは、アベルとカインの出来事のように人間の本質にあることなのかもしれません。そして、ノアの時代に人類は全滅させられるかの危機にあったことが聖書にしるされています。人類はそんなにも罪深いものなのでしょうか。人類=わたしならば、そうだと断言できますが・・・しかし、聖書全体から見ればその本質は人類が生き続ける事に負ける、無力であることを人類の歴史、神の歴史は示していると思います。神は人を生かす、どのような状態、環境、罪人であっても、人の罪を赦し、愛し、罪人をも、生きるにふさわしく、変えうる、罪に気づき、それによって、これではいけないと悔い改め、少しは他者を愛しうるようになっていく、そういう、罪人の救いが、聖書に記されています。これが、イエス・キリストの十字架であり、復活し、聖霊となり、私たちに働きかけてくださる、神です。そう信じることで、我々は行き続けてこられたのではないでしょうか。 【神は万人を救う神に倣いて】 神は万人を救う、愛する、と聖書はいいます。愛するには相手を理解するという要素もありますから、神はすべての人間を徹底的に理解し尽くすということにもなりましょう。神に習えとも聖書は語ります。ならば、私たちも万人を愛する神に習って、自分の気に食わない人をも理解し、大切にするように努めていきていくべきでありましょう。信仰者はそれを使命とし、神様の力を頼りに祈り、喜んで、敵をも理解し、大切にしていくことでしょう。それが実現しようがしまいが関係なく、そう、決断していく、信仰者も顕われるでしょう。 【まとめ】 現代は、イジメの問題にも見られますように、争いや、排除思想、神とか愛ではなく、経済を神とする偶像礼拝の時代です。私たち、キリスト者は、イエス・キリストこそ、私たちが頼るべき神である、信じるべき対象である、自分の救い主である、命を与えてくれる方である、ということを、この偶像礼拝の世に向かって、否と言い続けていかなくてはならないでしょう。偶像を礼拝するのではない、イエスキリストを礼拝するのだ、ということを、この世にこの教会の礼拝を続けていくことで、示していきましょう。