聖書 創世記31章22節~32章1節 ルカ16章1節~13節 
説教「平和の共同体の心得―主は平和をもたらす神」 小野寺清栄牧師
讃美歌21 37 346 533

「神と富とに仕えることはできない.you cannot serve both God and money.」という不可解な箇所で本日の聖書は終わっています。これは、どういう意味でしょうか?
マタイによる福音書6章24節にも「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。you cannot be a slave of two masters ; you will be loyal to one and dispise the other. you cannot serve both God and money」とあります。
神とは何か、十字架による罪の赦し、復活による永遠の命、What is God? God forgives
sin by  Jesus’s cross .   God gives the life everlasting. というのでありますから、つまり、これは、人の生、人を生かす方であるということになるでしょう。死すべき人をも生かす、死んだ人に、死んでしまった人々にも、復活をもたらし、もう一度、新しい命を与え、生かす神、これが我々の信じている、聖書に記されている、神なのだと理解できると思います。(God gives revival for people who  were even dead.)

つまり、人が生きるところに神が必ず関わっているということです。Where human are ,God is.)
さて、はじめの、神と富に仕えることはできない、ということは、どういうことになるか、といいますと、「富」に仕える生き方をすると、「生きてはいけない」、「死ぬ」、ということです。If we serve money, we cannot live ,dei.富を求めることと神を求めることとは全く違うということです。Serving money is different from serving God at all.毒の入った食べ物が「富」だということです。Money is such as food which is full wth pisions.そして、神を求めて生きる時にのみ、生きるということです。So,we can live when we serve God only.これは不思議な事です。This is miracle.しかし、そうなのかもしれません。But it maybe.赤子を見て下さい。Looking at  a little baby.彼ら彼女らこそ富に仕えず、神に仕える生き方をしている人かもしれませんね。They may serve God ,don’t serve  money.「天の国はこのような者たちのものである」、「乳飲み子のように神の国を受け入れるようでなければ決して神の國に入ることはできない」と乳飲み子の信仰を勧めています。子どもは富などしりませんし、富を求める事もしません。ただ、生きているだけですね。そういう生き方こそ重要であると、イエスさまは示しているように思います。

富に仕えず、生きる事。むしろ、富を生きるために利用したり、用いる事、これが聖書のテーマかもしれません。全人類が生きるために、富をどう利用するか、わたしたちは考え、実践していきたいものです。

さて、本日の旧約聖書の箇所は、ヤコブとラバンの娘の結婚と財産の問題の争奪戦のような話でなんとも大変なことで面倒なことだろうと思ってしまいます。ヤコブは嫁をもらいますが、2人の姉妹、レアとラケルの姉妹をもらいますが、そのために14年もの間、ラバンの家で牧畜の仕事に従事したのです。そして、6年は家畜のために働いたとあります。20年の間、ラバンのもとでヤコブは使用人として働きました。そして、報酬を10回も変えられた、しかも、だまされたということをヤコブは語るのです。ヤコブにしてみればたまったものではないでしょう。ヤコブは娘2人と家畜をたくさん連れて、パダン・アラムから、父イサクノいるカナンに向けて逃げ出しました。また、ラバンにしてみれば、今まで手塩にして育てた娘2人を、親戚とはいえ、500キロ以上も離れている、ところに寄留者として住んでいるヤコブのところに渡すのは、残念でもありましょう。また、家畜もずいぶん、ヤコブにとられてしまった。ラバンが経営し始めた牧畜です。親戚とはいえ、今まで見たこともなかった、見知らん人と同じようなヤコブに娘も財産も取られてしまう。しかも、逃げたラケルはラバンの守り神の像をもって逃げていたのです。日本で言うますなら位牌をもって逃げていたのです。ラバンにすれば、娘も、財産も、大事にしていた神の像も、盗まれた、という怒りに満ちた精神状態になっていたと思います。これでは、戦闘体制、争いが生じるしかない状態です。ラバンはヤコブが逃げたことを3日目に知ります。そして、一族を引き連れて、追いかけて行きます。
このヤコブとラバンがぶつかる! それが今日の出来事なのです。

神が関わった出来事
しかし、結末はヤコブとラバンは和解をすることになります。それはどうしてかといいますと、神がヤコブにもラバンにも働いたからでしょう。ヤコブにははじめ神から「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」と語られます。そうして、逃げてくるのですが・・・
ラバンには、逃げたヤコブを、7日間追い、おいつた、その晩、夢に神が出て「ヤコブを一切非難せぬよう、よく、心に留めておきなさい」と言われた、と聖書に書かれています。

物言わぬ偶像ではなく、わたし達を平和に導く神
さて、ラバンがもっていた守り神。ラケルが隠し持っていたわけですが、ラケルは鞍の下にいれ、そこに腰掛けて、ラバンに月のものだから立てませんと言ってまんまとラバンを騙したのです。守り神はちょっと可愛そうな気がしますね。しかし、この守り神が見つかったなら、こじれてしまうのです。問題が生じてしまうのです。守り神は見つからないほうがよかったのです。それは、ヤハエイの業なのです。ヤハウエの神は、ヤコブにアラムを発って、カナンに帰れと言い、ラバンにはヤコブを非難しないようにと語る、実に、人に影響を与える神です。そして、その先あるのが和解です。ヤコブとラバンは和解し、共に食事をします。また、後で、カナンに行く、ヤコブも、長子の権利と神の祝福を奪い取った、兄エサウと和解するのです。ここに描かれている神は、実に和解の神なのです。人と人のいざこざ、しかも宗教的な問題がいりこんでいる中での問題だらけで、一触即発の状態にありながら、神の介入で和解が生じる。このことをここから学ぶ事ができると思います。


神は平和をもたらす神
本日の聖書の箇所から、神様は富の奪い合う複雑な問題が生じる中に、人智を超えるありようで働かれ和解を与えられ、平和に生きる道を与えられることを受け止めることができると思います。今、私たちは1000年に一度の地震や津波と遭い、未曾有の経験をしています。その中で、どうして生きていったらいいか分からない、問題に出会っている方もいるかもしれません。被災地になくとも、それぞれの暮している地域で艱難にあっている人もいらっしゃるかもしれません。しかし、主イエスはそういう艱難の只中におり、平和に生きる道を用意してくれているのです。私たちはその道を見失っているだけです。その道は、愛、この世の最も小さい者と共に生きる道であるということではないでしょうか。なぜなら、その最も小さい者とは、イエスであり、十字架のイエスであり、神であるからです。この神と共に生きる時、平和の暮らしが与えられると聖書は語ります。そして、また、このわたし達も神と共に生きる時平和の暮らしが実現するという承認になっていきたいものです。
みなさまの祝福をお祈りします。