聖書:創世記30章25節~43節、 マタイによる福音書15章21節~28節 説教題:身近な人を大切にする 讃美歌21:542 493 440 平和を考える時、まず、家庭について語る方々もいますが、 わたしはそれは正しいことではないかと思います。 完全なホームを作るのは、完全な人を造るように難しい。 私がまず完全でないから、私のホームが完全である理由はない。 「身修而後家斎(みおさまりてのちいえととのう)」。 ホームは私が平安を求める所ではなく、平安を与える所である。 ホームは幸福の貯蓄所であって、その採掘所ではない。 求めようと願って成ったホームは必ず破れる。 与えようとして成ったホームだけが幸福なホームである。 ホーム、ホーム、幾多の青年男女がその幻影に欺(あざむ)かれて 失望の島岸に破船したか。詩人ヴァージルの牧者は「愛」と相知って それが岩石であることを知ったと。世に理想的ホームを造れず 失望する者の多いのは、ホームを客観的楽園とみなす者が多いからである。 (内村鑑三著、「一日一生 新版」、教文館、1997年より) 橋下市長があなたは何に命をかけますか?と言う問いに「子どもと妻です」と 言っていました。これは素晴らしい。そのように身近な人を大切にすることは 聖書的にも間違っていないと思います。 しかし、現実的には、なかなか難しい。人は平安や安らぎ、幸福を家庭に 求めてしまうからでしょう。家庭を平安や安らぎ、幸福の製造所とは思えない のが、大方の考え方なのではないでしょうか? 身近な人を大切にするよう祈り、平和な世にしていきたいです。 今、私は差別の問題にぶつかっています。ある施設で、利用者があまり大事にされない。いてもらって迷惑だというような話し方をする。差別、してはいけないということは分かっているのに、つい、つい、そういう差別に向かってしまう、人間の恐ろしい性にきづク事があります。差別のない社会は平和だと思います。差別のあるところではそうでしょ 戦争が無い状態なのでしょうか?戦争がある場合はそうでしょう。 経済的貧困が無い状態でしょうか?貧困がある場合はそうでしょう。 独裁的支配で恐怖政治がしかれなていないことでしょうか?恐怖政治が敷かれている場合はそうでしょう。 災害から逃れうる事でしょうか?災害があるところではそうでしょう。 病気癒される状態でしょうか?病気があるところではそうでしょう。 憎しみのない状態でしょうか?憎しみのある場合はそうでしょう。 フランチェスコの祈り 主よ、貧困と飢えのうちに生き死ぬ世界中の同胞の為に働く私達をそのことにふさわしい者にしてください。 私達をあなたの平和の道具としてください。 憎しみのあるところに愛を 争いのあるところに許しを 分裂のあるところに一致を 疑いのあるところに信頼を 誤りのあるところに真理を 絶望のあるところに希望を 悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。 慰められる事よりも慰める事を 理解される事よりも理解する事を 愛されるよりも愛する事を 私が求めますように 私たちは与えるから受け、 赦すから赦され、 自分を捨てて死に 永遠の命に与るのですから・ 本日の箇所は、ヤコブとその妻の父親ラバンとの財産の争奪合戦、攻防が描かれています。妻の家族との羊と山羊の家畜の取り合いのごたごたした暮らしが書かれています。旧約聖書の創世記に記されている話はイスラエルの一つの民を中心とした話ですが、アダムとイブの主の言いつけを守らない罪、カインの兄弟アベルのねたみ殺害、ノア、アブラハム、イサク、でも神に従わない人間のなかで、かろうじて選ばれてきた様子が描かれてました。ヤコブに至っては、兄エサウの長男の権利神の権利を奪い、兄エサウから殺意を抱かれるようになったヤコブ。これは、ひどい話ではありませんか。 しかし、この話は、現代の今の私たちの暮らしにも応用が利く話です 特に私たちの暮らしが落ち着かない、不平不満がある、面白くない、憎い、羨ましい、ずるい、悔しいなど、暮らしにおいてのマイナス面でお悩みの人が読むと、ああ、なんだ, こんな昔のことにも自分と同じようなばか者がおったんだと安心をもできることが、満載なわけです。しかも、それが聖書という、キリスト教の教典、神について罪について義について霊感をもってかかれたまったき正しき書に書かれていることは驚きを超える神秘としか思えません。 この聖書平和について書かれている本ではありません。 むしろ人間がいかに平和的でなく、お互い妬みあい、恨みあい、憎しみ合うもので傷つけやすく、殺伐とするものであるのか、 人間がいかに創造的でなく、破壊的であるか、 人間がいかに他人を愛さず、利己的であるか、 こういう罪の問題、神を愛さない、信じない、罪の問題を徹底的に記してるのです。 ですから、聖書から平和のモデルを得ようとしても無理です。聖書からは人間の罪については理解しやすいと思います。そして、平和を実現するのはイエスであるということを理解することは可能です。 この罪の世の中では希望がないように思われます。 イエスキリストの十字架を抜きにしたならば、たしかにそうです。 しかし、この人間の大罪を赦す十字架が存在した! そこから私たちは罪から救われるという 逆転業をしんじることができるようになりました。平和を破壊するの根源は罪です。この罪が帳消しにされることによって初めて平和が実現する希望が与えられます。 ヨハネの福音書16章33節、これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に既に勝っている。といっています。 ここに信仰者の存在の意義があるのです。 信仰者は平和は人間には実現不可能である事を知ってはいるが、しかし、平和が人間に実現する事をも知っている。それは人の手によってなされるのではなく、イエスによって、なされるという事を知っているのです。 ですからはイエスを信じる者は平和実現の希望を失いません。 フランチェスコの祈りを祈れるものとなっていきたいものです。