創世記29章31節~30章24節 ヨハネによる福音書15章11節~17節 平和の共同体の心得―互いに愛し合いなさい- 最近楽天が調子が良いです。とてもいいことです。で、思ったのですが、自分という人間はなんと心変わりのする、いい加減な人間だということです。楽天ことし始めの頃は負けてばっかりいました。そのとき私は星野監督やめろ、と思っていました。しかし、最近、楽天が上がってきました。そうしましたら、「星野監督、さすがだな」というように自分に都合の良い事が起こるとその人ひいきになり、悪い事になると排除したくなる、そういう気持ちが自分の心の中にあるということが分かったのです。 私たちは、人と人の関係の中に生きています。親子、兄弟、家族、知人、友人、恋人、夫婦、職場での雇用被雇用者関係、上司部下の関係、組織での指示されたり、指示を受けたりする関係、師弟関係、病院などで治療する人される人、支援される人する人、介護される人する人、その他サービスを受けたり与えたり、いろいろな関係があります。円滑に暮らすには、関係が仲良くお互い尊敬しあう感じだと良いと思うのですが、なかなかそれが上手くいかないと思います。憎みあったり、いがみ合ったり、裁きあったり、避けあったりすることもあります。そういう場面に出くわすと本当に私は意気消沈してしまいますが、自分の心の中にはそういう気持ちもあるということは否定できません。 本日の旧約聖書の箇所は、ヤコブの二人の妻とその子どもの話です。夫婦、親子、兄弟姉妹という共同体は最も身近共同体で人間なら親子は必ず経験する共同体といっていいでしょう。ヤコブの妻となった二人の姉妹、3角関係にある、レアとラケルのねたみや嫉妬のしあい、子供の事でもめていることが示されています。さらに、子どもを産ませるためにラケルは召使のビルハを夫のヤコブに与え、子どもを得るようなことをしていますし、レアも召の使いジルパをヤコブと関係を持たせ、ガドとアシュルという子どもを得たとあります。3角関係どころか、5角関係になってしまっている。レアやラケルは本当に男してヤコブを好きになっていたのか、とさえ思えてしまいます。跡継ぎを得ることで、姉妹同士の競争にお互い勝とうとしている、そんな状態にも思えます。召使の気持ちはいかがなものでしょう、こどもを生むだけに利用されてしまう、しかも、その子どもは他人の女とその夫の子とされてしまう、いくらなんでも、喜んではいられないように思います。現代の日本の社会で言ったらとんでもない夫婦関係、親子関係が示されてます。「恋なすび」まで出て来ます。これはイスラエル地方でよく使われている精力剤、媚薬でありまして、夫婦生活を活発にして子どもたくさん造れるようにした精力剤、今で言うならバイアグラとか妊娠しやすくする食品だったようです。そういうことまでしてヤコブの妻としての優位性を勝ち取ろうとしていた姉妹のようでした。 ラケルは自分に子どもが出来ないことを何とかしようとします。ヤコブに言うわけです。「わたしにもぜひ子どもを与えてください。あたせてくださらなければ私は死にます」と命がけで迫ります。ヤコブは怒って、言います。「私が神に変われる徒と言うのか。お前の胎に子どもを宿らせないのは神ご自身なのだ」と。命がけで子どもを得ようとするラケル。レアも同様でしょう。 レア:ルベン、シメオン、レビ、ユダ、恋なすび事件後イサカル、ぜブルン、ディナ 召使ジルパ:ガド、アシュル、 ラケルの召使のビルハ:ダン、ナフタリ、 恋なすび(受胎を促す食品、精力剤)のもめごと こういう問題が生じていることが聖書の現実にあるのです。そして、現代社会を考えてみましても、日本は少子化となってしまっていますが、同じような現象は起こっているのではないでしょうか? どれだけ輝ける人に成れるか、どれだけ、人生を自分の思い通りにできるかという思いでみんな暮しているのではないでしょうか?もちろん、夫婦や親子、兄弟姉妹の血族である共同体においても、ねたみや嫉妬をせずに、うまくいっている、家庭がどれほどあるのでしょうか?血族の共同体だけではなく、職場やサークル、地域での共同体、その他いろいろな組織で妬んだり、嫉妬をせずに、全員が喜んでいる共同体とはいくらほどあるのでしょうか? 私の知っている施設では、利用者の中で職員に注文をつける人は職員から疎んじられるようですね。弱い立場だからとても遠慮してしまいますね。職員間でもちょっと生意気だと排除されるようなことが起こりかねませんね。自分の都合のいい人にはよくするけれども、関係ガないと自分が思っている人とは、挨拶もしない人とか、いるんですね、実際これが。最近はシリアでもイスラム教の宗教的対立が原因で内部で虐殺が行われています。アサド政権に反対するイスラム教一派を狙っての女性や子どもを含めた殺害、拉致事件が起こっています。 そういう現実であり、また、自分の心の中でも、星野監督に抱いたような、自分の都合に合わせた、思い、主の御心とは異なった思いをもちっていうことに気づかされます。 主が思い通りになしてくれたときには、神を思っていくという、神様を利用していく、自分であることに気づかされます。 さて、そういうとき、聖書の箇所には、「互いに愛し合いなさい」ということばがあるのです。「愛し合う」ということばは良く聞いていることと思いますが、じゃあ、どうするのっていうとなかなか難しいことではないでしょうか? 夫婦として親子として兄弟として師弟として上司や部下としてどうするのが愛し合うことか? きょうのヨハネによる福音書では、「友」となること。「友」のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない、とイエスはいいます。そして、イエスは弟子たちを友と語りました。と語っています。「友のために自分の命を捨てる」ということはイエスの十字架を示しているのだと思います。愛する人に裏切られ、憎まれ、殺されるような人と友となること、それが、イエスの十字架を背負った弟子達への関わり、これ以上大きな愛はないと言われる「神の愛」であったのでしょう。敵をも愛する愛、敵をも友として、その友のために命を捨てることのできる愛を、イエスは弟子たちに示し、聖書を通して私たちに示してうださるのではないでしょうか。また、聖霊を通して私たちに体験させてくれているのではないでしょうか?例えば、ナチスに捕まったコルベ神父は、アウシュビッツの収容所でガス室に入ることになった、たまたまそこで出会った、見知らぬ独りのポーランド人に代わりになってガス室に入って死にました。 そういう意味を含んで、愛し合う関係とは友となる関係であるとこの聖書の箇所から読み取る事ができます。 親子であろうと、夫婦であろうと、兄弟姉妹であろうと、師弟であろうと、どんな関係であろうと、そこに【友】となる関係をいれなさい。それがさまざまな関係を喜べるよう、うまくやっていく関係である事を本日の聖書から読み取ることができるように思います。もし、相手と問題があったような場合は、今日の創世記にでてくるようなレアとラケルのような姉妹関係の問題でも、ヤコブとの夫婦関係の問題でも、召使と主人の関係でも、友という関係になっているかどうか考えてみることで問題の原因がわかるのではないでしょうか? また、可能ならば、友の関係に戻してみる事で、問題が解決していくのではないでしょうか? 良く、施設や福祉の分野で人権の尊重とか言われますが、異性愛の人も同性愛の人々も、同和の人部落、差別障害者の差別、最近では放射能地域の人々への差別とか言われますが、その問題も「その人とあなたは友達になれますか?」という問いにどう答える事ができるかということでしょう。 互いに愛し合いなさい、とは、互いに友としての関係になりなさい、ということだと本日のイエスの言葉は教えてくれているように思います。そして、それは、問題のある関係に苦しむ我々が、喜びに満たされるために、語ってくれていることばでもあると私は受け止めています。