創世記29章1節~8節 マタイ9:9節~13節 説教「平和の共同体の心得―罪人と共に」 『パンドラの箱』ということばをご存知でしょうか?これは人が開けてはいけない箱なんです。このパンドラの箱からはいろいろな災い、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなどが出てくるとされています。「希望」だけがパンドラの箱に残ったまま蓋をされてしまっているという箱です。ギリシャ神話の話のようですが、この世の闇の問題、原発を含めた闇の問題を、人間の欲望を満たすために開けてはいけない箱、やってはいけなかったこととして、説明するにはとても適切な話かもしれません。仏教では苦しみが現実であるという思想です。生も苦しみ、病気も苦しみ、老いる事も苦しみ、死ぬ事も苦しみ、みんな苦しみという解釈でしょうか、確かに人生苦しみの中にいる人はそうかもしれません。現実にあてはまるといえばそうかもしれません。 創世記を読んでいますと、人はなんて神のいいわけの聞かない人が多いのだろうと思えてきます。人は自由意志を与えられたといいますが、まことに、神に逆らう自由意志を与えられたのでしょう。自分のことを考えても神に従わない暮らし、人を憎んだり、人の不幸を喜んだり、自分勝手な暮らしをしています。深く悔い改めることばかりです。神さま私を憐れんでくださいと、呼吸するたびに一息一息いわないといけないくらいだと私は思います。 本日の聖書もヤコブと伯父ラバンの娘たちレアとラケルが妻となるいざこざ、ヤコブを取り舞く人々の苦悩が描かれていく冒頭です。ヤコブ・・・神から祝福を受けていく約束を得ているヤコブですが、長男の権利を兄エサウから奪い、神の祝福もイサクを騙し、エサウから奪ってしまう。エサウはヤコブに殺意を持つ。それを知った母リベカとヤコブ、リベカはヤコブを自分の兄のラバンの元へ逃がし、ラバンの娘たちからヤコブの妻を見つけるようにと策略を立てます。そんなヤコブが、父イサクからラバンの娘を嫁にするようにと言われて、自分の住むカナンの地、べエル・シェバからアラムハランの北へ向かって、逃げるように出てくるわけです。神に祝福される事を約束されているヤコブといえどもとんだ苦難の人生だったと思います。本日の箇所は、叔父、ラバンと娘ラケルとに会うところです。羊の水のみ場の井戸での話です。この井戸は羊などの家畜を飼うのには重要な水をえられる場所で、住民が共同で管理していたようです。ラバンも共同管理で仲間が全員集ったところで水を羊にやることになっていたようです。井戸の口には大きな石が乗せてあって、たぶん、3人か4人かでしか上げられないようになっていたのでしょう。共同組合みたいなことだったようです。ここの地方は家畜を重要視する、家畜を糧として暮す人々であったと思います。ここの人々は家畜共に生き、家畜が彼らの「生」を支える「神」であったような人々であったのでしょう。今のわたしたちは「お金」と共に生き、お金を得 るために暮しています。現代社会は、お金が神になっている時代ではないでしょうか。 そういう点では、旧約の創世記とわたしたちが暮しで依存している物はなんら変わっていないように思われます。 さて、ヤコブはこの地で20年間すごすことになります。ラバンの娘の妻を得るために働かされるのです。レアとラケルの娘をラバンは利用し、財を得ようとヤコブを嵌めていく。ヤコブは妻2人を得るためにラバンに嵌められていくのです。家畜という財産のために、ヤコブもラバンもレアもラケルも支配される20年を創世記は描いているようです。 家畜を暮らしの支えとす地域でのいざこざにヤコブとこのラバンの家族が巻き込まれていきますが、ここに神さまの啓示は入ってきて、二人に妻、財産を得て、ヤコブは導かれて先祖に与えられたカナンの地方にまた戻っていく事になります。 【ヤコブは現代の私たち】 現実の暮らしの中でも、信仰していることで、信仰しているのにどうして自分は罪を犯してしまうのだろう、人に良き福音を伝えられないのだろう、などと、自分の思いとは異なる、現実を嘆く事、私にはとても多いのです。それはおそらく、自分は神でないものを「神」として暮しているからではないかと思います。今は「お金」が神となっているのではないのでしょうか? ヤコブや当時の人々と同じように、私たちは「財産」とか「お金」とか神ではないものを「神」としている人だからなのではないでしょうか? これを罪というのだと思います。そして、私たちは罪人でしかあり得ない。神でないものを神として生きる、依存して生きる。財産やお金に依存して生きざるを得ない罪人であると思います。 【私たちの罪の暮らしに差し込む、主の啓示】 しかし、どこからか、その罪人に、本当の神が介入していることに気づいてしまったのが。アダムやイブ、カインやアベル、セトやノアの子孫、アブラハム、イサク、ヤコブやその関係者、選ばれた人々、預言者、キリスト者やその関係の信仰者ということになるのだろと思います。 そして、その本当の神は私たちに介入しつつ、人々に、語り続けていることが、聖書に纏められたのだと思います。旧約聖書には、すでに以下のようなことが書かれているのです。 『私が求めるものは憐みであって、生け贄ではない』「わたしが喜ぶこのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす捧げものではない」(ホセア6:6) 「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛のむすびめをほどいて、 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば、衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」(イザヤ58:6-7)「しかし、神の求めるいけにえは砕かれた魂、打ち砕かれ悔いる心をあなたは侮られません。」(詩編51:19) とあります。 神が人に求める事は、「憐れみ」「愛」「神を知る」「悪による束縛を断つ」「軛のむすびめをほどくこと、虐げられた人を解放すること、軛をことごとく折る事、飢えた人にあなたのパンを裂き与えること、裸の人に衣を着せかけること、同胞に助けを惜しまないこと。砕かれた魂。打ち砕かれ悔いる心。などのようなことであると旧約聖書にも書かれています。 そして、イエスの弟子には徴税人マタイが選ばれました。徴税人というのは当時は、遊女と同じくらいの最底辺の人だったそうです。イエスは語ります。わたしが来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招くためである」と言われています。 ヤコブが紙に選ばれたのもひとえに、神でない、自分の力や財産などを拠り所とする、罪人であるからでしょう。弟子達も選ばれたのは、神でない物、お金を拠り所とする、罪人であるからでしょう。そして、私たちが選ばれたのも、ヤコブやマタイと同じように、神でないものを拠り所とする。罪人であるからでしょう。そして、イエスキリストは罪人である我々と共にいてくださり、わたしたちが「神を知る」「悪による束縛を断つ」「軛のむすびめをほどくこと、虐げられた人を解放すること、軛をことごとく折る事、飢えた人にあなたのパンを裂き与えること、裸の人に衣を着せかけること、同胞に助けを惜しまないこと。砕かれた魂。打ち砕かれ悔いる心をもつように、聖書の言葉で介入し、イエスという人として介入し、聖霊によって私たちに介入しているのだと思います。 「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(ヨハネの黙示録21:3-4)」という救いが完成するのです。神を神としない私たちの身近な現実が今どうであれ、世界の現実がパンドラの箱を開けられたような状態のようであれ、苦しみの世であっても、主は、ここにも介入してくれているのです。そして、疎んじられ、苦しんでいる者を見てくださっているし、その嘆きを聞いてくださっているし、いつの日か疎んじられているものを、そうでなく、涙を拭い去るように互いに結び合わせてくださるし、そしてすべての者が真の神を神として、その神に依存して暮らせるように導いてくださるのです。ヤコブに子どもが生れますが、ルベン、シメオン、レビ、ユダの誕生はそのことのしるしです。そして、ユダはダビデの父祖であり、イエス・キリストの肉における父祖です。その子が、この策略と争いの只中で生まれたのです。 パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っています。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相続相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」 主の思いは、罪人である私たちの思いを当然越えています。 罪人と共に本当の神さまがいてくださる。私たちはそれを見たり聞いたりしています。天地創造のときから神の言葉が、私たちに教会を通して2000年以上も語りかけて下さっています、また、福音書や弟子達の書簡にあるようないやしを初めとする奇跡が実際に起こってきている、現代でも。キング牧師が黒人の参政権を獲得し、オバマさんがアメリカの大統領になったような神の奇跡をみる、医療による癌やさまざまなの治療がすすんだような癒しが、マザーテレサのように愛する人々を、罪人のわたしたちの中に見ています。 パンドラの箱の中に残された希望が私たち罪人と共にいる神様によって取り出されているのではないでしょうか?