創世記27章1節から45節 
テモテ第一1章15節
平和の共同体の心得 神の選びは人智を超えて

凶悪事件
最近、日本基督教団の大月純子という広島に住む牧師が、13年前に23歳の母親と生後1か月になる子どもを殺害した福田孝行という当時18歳と1か月の殺人犯と養子縁組をしていたことが分かり、驚きを覚えていました。この牧師は池田小学校児童殺害事件の宅間という犯人とは獄中結婚していたということです。身内になると面会しやすくなるからという話ですが、残虐な犯罪に遭い、苦しむ被害者家族からみたなら、本当に信じられない異常なことだと思います。

イサクを騙し、エサウから祝福を奪う親子
本日の聖書の箇所ですが、母のリベカと子のヤコブが共謀して、神の祝福を兄のエサウから弟のヤコブに奪おうとする計略です。以前ヤコブは長子の権利をエサウから奪っていますから、さらに、イサクの祝福を受けるようイサクを騙すとは、なんたる不届きものでしょうか。イサクは兄のエサウを祝福したいと考えているわけですから。リベカも親として不平等極まりないですね。

創世記に記されている選び
創世記に記されている選びを考えてみますと、神より食べてはいけないと言われた木から取って食べたアダムとイヴ、アベルを多分妬み殺したカイン、その末裔、そして、本日はヤコブという人、この人は、生まれる前から、兄のエサウと争い、エサウのかかとをつかみ、足を引っ張ってやるというような勢いで生まれ、お兄さんから長子の権利を奪い取り、良い物を横取りするような人でした。そういうものが神から選ばれ、祝福を受けていくことが書かれています。

神の選び
神の選びとはどういうことかを聖書から、考えますと、民がどの民より貧弱であったからであるという理由につきます。(申命記7章7節)。
そうすると、旧約聖書の創世記の物語の出来事が理解しやすくなります。
アダムとイブにおいては神の言いつけを破り、カインの如くにあっては弟を殺した。そのような人智ではどう考えても、後継者にふさわしくないと思われるものに、神は心引かれ、主の信仰者としての継承者として、救い主がいることを、証しする者として立たせてくれたのは、その人間的に見て、どうも、貧弱だと思うところがあったから、と考えるのが、もっとも、分かりやすいと思います。

罪人の頭
聖書はわたしたちの罪深さを容赦なく示してきます。恐ろしいくらいにです。パウロは自分の罪については罪人の中で最たるものだと、自分が罪人の中で最高の罪人だと、自分より罪深い者はいないと語っています。
罪人の頭だと言った方々はパウロの他にもおります。聖書ではマタイもそう思
っていたいたようです。内村鑑三、弟子の塚本虎二、森永の創始者森永太一郎、
アメイジンググレイスを作ったジョンニュートン、性犯罪、殺害事件を犯し、
服役中に回心、伝道師になった高地芳太郎、もっと調べてみれば分かると思い
ますが、自分を『罪人の頭』と思っている信仰者は多いと思います。
さて、また、ここで、罪人頭が自分であるという事を前提に聖書を読んでいきますと、納得いかなかったこといろいろな事を解釈し、理解する事ができます。そして、神の選びが、罪人や貧弱さにあるのなら、騙し取るヤコブが選ばれていってもおかしくないですし、大月純子さんの気持ちも分かってくるような気もします。罪人の最たる者が私が、神の許しを得て祝福を得ている。ならば、ほかの方々はなお更、神様の赦しと祝福をいただけるはずではないか?と思われます。

聖餐式
さて、聖餐式。教団で今未受洗者に聖餐をすることの問題で免職になった北村慈郎牧師が免職になり、裁判に起訴されたようですが、この、聖餐式ということの意味する事について考ええみたいと思います。
コリント信徒への手紙一11章23節から26節には、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身主からうけたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてこれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われました。また、食事の後で杯をも同じようにして「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのようにおこないなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度にそれによって主がこられるときまで主の死を告げ知らせるのです。
とあります。これはどういうことでしょうか?
これはイエスの体の身体を食べて、イエスの血を飲んで、生きる糧となる。人の罪を赦す契約が成り立っているというのです。
そして、それをイエスの記念として行えと言い、その意味は聖餐式では、陪餐に預かるものは、主の死を告げ知らせる役割を担っているというように語っています。
イエスが死んだ事を告げ知らせる、というわけですね。死を忍ぶ、法事供養のような物ですね。また、終戦記念日のようなことかもしれいませんし、3.11.東日本大震災の慰霊祭のような記念会なのでしょう。そして、そのイエスの死は、聖餐式に与っている陪餐者の手によるものである。イエスを十字架につけ殺し、しかも、そのことによってのみ、自分は罪許され、生きているということを意味する式が聖餐式です。
従って、陪餐に与る者は、イエスを十字架につけた殺人犯、殺神犯であることをみとめた者です。

日々の人々の出来事に諦めや閉塞感をもち、希望のないことの多き日々です。このまま終わってしまうんだなあ、何にも大人らしいことはできなかったなあ、と空しい人生に終わるかもしれませんと嘆く事はないでしょうか?しかし、私たちは主と共にいる恵み、主イエスから罪赦される、救いの希望を知っています。わたしの希望はそこにのみあります。私たちが、たとえ、束になって人を殺害し、神を否定し破壊行動を行うものであったとしても、主はその破壊をも用いて、我々が生きることができるようにしてくれる、ということを示してっくれているのではないでしょうか。決して滅びに終わる事がないという希望を、神は破壊の神ではなく、創造の神であり、人の破壊、自然の破壊をもその創造に変えるという希望を、イエスの死は示してくれているのではないのでしょうか。そういう事柄を多くの方方に知らせていきたいものです。
それが、人智を超えて神から選ばれた我々の使命ではないのでしょうか。

お祈りします。