創世記 26 章 25 節から 35 節
ローマ信徒への手紙 6 章 23 節
罪人を聖なる者へと
アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。イサクは彼らに尋ねた。「あなたたちは、私を憎んで追い出したのに、なぜ、ここに来たのですか?」
彼らは答えた。「主があなた方とともにおられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。以前、我々はあなたに危害を加えず、むしろ、あなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに主に祝福された方です。」
そこでイサクは彼らのために祝宴を催し、共に飲み食いした。
次の朝早く、互いに誓いを交わした後、イサクは彼らを送り出し、彼らは安らかに帰っていった。その日に井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。そこで、イサクはその井戸をシブア(誓い)と名付けた。そこで、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ(誓いの井戸)といわれている。
エサウは40 歳の時ヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエスキリストによる永遠の命なのです。
【発達の特性:一見障害が人類の貢献に】
先日、発達関係の講演会にいてきたのですけれども、ADHD(注意欠陥多動性障害)とかPDD(広汎性発達障害)というような発達障害を呈する人がいるのですが、注意集中が散漫だったり、特定の物のみに興味を強く持ったり、人と関わるのが苦手だったり、人の気持ちをわかることが苦手だったり、社会生活上支障をきたすことがあり、症状はいろいろとあるようですが、発達障害とされています。そういう特性って私にも当てはまるところもあり、多かれ少なかれどんな人にもあるんじゃないかとも思ったりしている人もいるようで、私もそういう話を聞きますとああ私だけではないなと安心したりしています。
発達障害は一見、問題があるようですが、その問題あるものが、人類に貢献する結果にもなっているようです。発明家エジソン、アインシュタイン、坂本龍馬などがADHDだと言われています。一見、困った物だと思うものが、とんでもない人類の暮らしに貢献することをなすということを知ることで、とても、不思議な気持ちになり、うれしくなります。
【ペリシテ人が和解に望む】
創世記には、人間の問題行動がたくさん出てきます。アダムとイブは神様からの食べてはいけないという、善悪を知る木を食べてしまうし、その子、カインは弟アベルを妬み殺してしまうし、問題だらけの人間だと思ってしまうのです。しかし、神はそういう人間と共に人類を形成してきたようにも思います。本日の聖書の箇所のペリシテ人はイサクに対して憎んでいて、敵対し、追い出したり、井戸を塞いだり、迫害をしていました。しかし、本日の箇所は、敵対するペリシテ人とイサクが、平和にやっていこうと契約を結ぶということが書かれてうのです。ええ、どうして?と思うことが書かれています。ここを読むと、さらに不思議なのは、イサクに対し、一旦敵対していた、ペリシテ人(軍事国家)側の王のアビメレクが和解を申し出たということ、その理由が、「主があなた方とともにおられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。以前、我々はあなたに危害を加えず、むしろ、あなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに主に祝福された方です。」と言っていることです。「主が共におられ、主が祝福されていうことが分かった」から平和に暮らそうと思ったということです。敵が味方に変わるという大逆転が起こったということです。
【免停 不注意な運転が慎重な運転に】
私のことになって申しわけありませんが、運転免許なのですが、あと 1 点で免停になってしまう状態でした。お袋から車が運転できなくなったら大変なんだから注意しなさいと心配をかけていたのですが、あと 4 日月とあり、まあ、今まで大丈夫だったのだから、大丈夫だろうなんて、高をくくって、油断していたんですね。私も発達障害っぽい不注意なところや集中すぎることもあるんですけどね。そうしたら、昨日、仙台に行く途中、真っ直ぐな見通しの良い道路でスピード違反で捕まってしまいました。なんということをしてしまったんだ、免停だ、とショックを隠せず、警察に免停ですね。と無念の内を伝えました。警察はあわれに思ったのか、30 日免停でも、運転できるから、29 日免除というのがあって、1 日講習で済むからそれまで事故を起こさないようにと言われました。このとき、とても、助かったような気がしました。本当は運転できない罪を犯したのに、運転できるように許される、1 万 5 千円の罰金は残念ですけれども、運転して、今日こうして教会に来れる恵みをも感じているのです。もう、事故も違反をも起こさないように真剣に注意するようになましたが・・・不注意な運転が慎重な運転に変わりうることもあるのです。これは罪の赦しがあったからなのではないかと思うのです。罰せられていただけでは運転できなくなっているでしょう。赦しは私のような罪を犯す者が生きていくにはなくてはならない事柄です。
【主が共にいる私たち】
「罪が支払う報酬は死です」とあります。人は、行きつく先に死を見ます。実際、これまで死ななかった人は伝説の人でもない限りいないでしょう。それは全ての人間に起こる確実なこととみんな信じています。人は死を思うとき、悲しみ、絶望するのではないでしょうか。
死これは罪人である所以だとパウロは語ります。しかし、パウロは、神の賜物はイエス・キリストによる永遠の命だ。とも語るのです。イエスキリストは私たちに何をしたか。我々の死に値する罪を許してもらう為に十字架にかかり、黄泉に下ったのです。そして、私たちは罪赦され、永遠に生きるものとされている、そうもパウロは語っているのではないなのでしょうか。
矢内原忠雄という内村鑑三の弟子の人の教会学校の話を読んだことがあるのですが、蝶がさなぎから成虫になる例を出して、復活ということが自然現象でも見ることができることを紹介しています。そして、人間は死す存在から永遠に生きる存在へとイエスキリストによって変えられることが聖書には書かれている、だから、みんなは死は怖くないね、正しいことを言って、迫害されても、それでも、正しいことは正しいと思い続けることができるよね。復活するんだから、というようなことを語っていました。実際、矢内原は東京帝国大学の教授となりましたが、日本の植民地政策を民主主義の立場から論じ、軍国主義と衝突し、排斥されるようなことが起こります。東京帝国大学の教授を辞職に追いやられます。その後個人的に第 2 次世界大戦中も『嘉信』という信仰雑誌を出し続け、廃刊にするよう弾圧されながらも、平和主義、反戦を訴え続けました。なぜこんなに矢内原は戦うことができたのか、1932 年に満州調査のおり、列車の盗賊の襲撃事件にあい、ほとんどの乗客が物を奪われ、害を被った中で矢内原の客室だけは被害を免れたそうです。この事件を通して矢内原は神の隣在を経験し、「神は私の避けどころ、私の城、私の助け主」と叫んだということです。ここで、矢内原は聖なる人と変えられたのではないかと思います。
罪人が罪人でなくなり、聖なる者に変わること、とても、そんなことあるまい、と思っていませんでしょうか?
発達障害と言われる人も、人類に貢献したエジソンやアインスタイン、大政奉還に平和に貢献した坂本龍馬にもなりうるように思われます。
本日の旧約聖書からは敵対する者が和解することも可能になることが示されています。不注意間ドライバーが安全な運転をするように心がけるようになることもある。
そして、矢内原忠雄のように戦時中、排斥されながらも、反戦、平和主義を訴えることもできています。
本日は、罪人が聖なる者へと、というタイトルです。罪人が聖なる者へとされるのは、イエス・キリストの十字架の罪の許しによることで、聖なるものとは永遠の命に預かっている者であることも、信じていきたいと思います。
聖なる者は、御心を叶えるもの、平和を実現したり、敵をも愛する人のことをもいうのだと思います。罪人が聖なる者へ変えられることは素晴らしいことで、奇跡です。ふつうは信じられないことですが、主イエスが共にいる、聖霊とな って働いていると信じている私たちですから、そういうことが起こりうるのだということも、日々、忘れないでいきたいと思います。