創世記26章15節から25節 ヨハネ4章23節から24節 51 56 531 神の恵みへの応答・礼拝 【福祉施設での出来事。なんということだ】 福祉施設のクリスマス会、いつもオープンニングに「きよしこのよる」と賛美歌を1曲、それとジングルベルを歌わせて頂いているのです。昨年もやらせていただいたのです。 そのクリスマス会の写真いつも施設長が撮って貼り出して頂いているのですが、その写真集の利用者の写真に傷をつけるという異常なことがおこりました。写真に傷をつけられた利用者は確かに手間暇のかかる面倒な利用者なのですが、写真に傷をつけて全職員がみるかもしれない写真集にそのままにしておく、まるで、こういうことをしてもいいだろうと、みんなにいいたげな、非常に冷酷な行為です。また、施設でこういう行為をしても大丈夫と高をくくっている行為にも取られます。ここはサービスをする施設なのに、虐待をしているというシンボルにもなりうる行為です。なんと言う行為でしょうか。 ポールトルニエという人は、医療・福祉・教育機関は神の宮であると言っていますが、わたしもこの意見に賛成です。そこで行われている行為、医療・福祉・教育は、礼拝行為そのものであるということであると思います。サービスという英語は礼拝という意味でもあり、人を生かす行為、病から癒す行為、貧困や、生活苦から救い出す行為、よりよく生きるよう支援する行為として捉えることができるのではないでしょうか。 その礼拝をすべき施設で、このようなことが起こる。とてもその神経が信じられないのです。10年以上私たちはこの施設を作ってきましたが、こういう結果になってきているのを見て、残念に思いました。それが、私たちの仲間にいるとは・・・・・ショックでした。 神がいきて働いているはずだ。しかし、なぜ、こんなことが起こるのだろうか、と考えてしまいます。 【ペリシテ人ととも生きるイサクの一行】 本日の創世記の箇所は、神に祝福されたアブラハムの子のイサクとその土地の住人ぺリシテ人との間で井戸についての問題が起こりました。井戸というのは水を得る場所で、生活にはかかせない、生命の源とも考えられます。その生命の源の井戸を塞がれてしまうと言うことは、いうまでもなく、命を絶たれるという危機にイサクが立たされていたということです。聖書にはペリシテ人はイスラエルの宿敵として書かれています。しかし、そういうペリシテ人であっても神からの啓示をうけ、神が祝福されていく民を守っていくようにされていくことが創世記には記されています。26章の1節でも飢饉の危機を救ってくれたのがペリシテ人であったのです。そのペリシテ人がイサクの一族に対して嫌がらせをする。命の源を断とうとする行為をする。そして、イサク一族はゲラルを発って、ベェル・シェバというところに移っていかなければならなくなりました。なぜ、ペリシテ人はイサクの一族にいやがらせをしたのか、それは、「ねたみ」であると26章12節~14節にその理由が書かれています。イサクがその土地に種をまくと、その年のうちに100倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて豊かになり、益々富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召使を持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった、とあります。恵まれすぎるということで「ねたみ」が生じるのでしょう。 イサクはゲラルの谷というところに天幕を張り、そこで、井戸を掘っていきます。そこでも住民との間に生命の源である井戸を巡って、エセク(争い)が生じますが、最終的には、争いが生じず、井戸を得ることができるようになりました。その井戸をレホドト(広い場所)と名づけました。イサクはその結果、「今や、主はわれわれの繁栄のために、広い場所をお与えになった」と言いました。主がともにおり、多くのものが生きるに必要な井戸を与えてくれたことを悟った、気づいた、体験したようです。イサクたちは、更にベエル・シェバというところに上って行きます。イサクは、その夜、そこで主の言葉を聴きます。「わたしは、あなたの父、アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムの故に。」と言う言葉を聴きます。地元で地からあるペリシテ人らから排斥され、争いが生じ、敵意を向けられるイサクの一行。しかし、主は、そういう争いや敵意があるような、生きることに困難と思えるような状態にあっても、共にいるから恐れるなと語りかけてくれる、もちろんその前には、主は、生きる糧となる井戸を次々と提供してくれていました。そうして、イサクは今、べエル・シェバというところにいます。 ベエル・シェバというところは今でもイスラエルにある都市です。ここでアブラハムは礼拝をし、ぎょりゅうの木を植え、暮らしました。ベエルとは井戸のことで、シェバとは「7」という意味(完全数を表す7です)です。「シェバ」には「シャバ」という「誓い」という意味にも汲み取れるように聖書にはしるされており、ベエル・シェバというところはアブラハムとペリシテの王アビメレクとが平和に友好的に暮らそうと誓いを立てたところでもあるのです。敵意を持つような異なる民族がともに平和に生きる、そういう意味がべエル・シェバという地名には託されているように思います。 そのべエル・シェバで祭壇を築き、主のみ名を呼んで礼拝しました。そして、天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。とあります。 【神の恵みへの応答・礼拝】 本日は神の恵みへの応答として、礼拝を考えていきたいと思います。本日のイサクの礼拝をみますと、井戸にありつけ、神からの祝福の言葉を聴いたあとに礼拝しています。自分と礼拝する対象の関係がはっきりしています。恵みを与えてくれている、そして、共にいて、今後イサク自身を含め、イサクの子孫を祝福してくれる、イサクと関わる人々すべてを祝福してくれるという関係にある対象ーそれが神でり、イサクが礼拝している対象なのです。祈らなければ罰が当たるとか、お賽銭を上げなければ願い事がかなわないというような神ではない。一方的に命を創造し育み祝福してきた神、そして、これからも祝福することが約束されている神、そういう神とイサクは出会い、その応答として、祭壇を作って、教会でするような礼拝をしたと捉えることができます。 【霊と真理の中での礼拝】 本日のヨハネによる福音書4章23節から24節をみてみますと、 イエスは新約時代の人々、私たち現代人へもですが、礼拝については「霊と真理」をもって礼拝しなければならない。と語っています。「霊と真理」をもった礼拝とはどういうことでしょうか?これが私たちが常に考えていなければならない課題でしょう。答えもいろいろあると思います。 本日は、このことについては、神の恵みへの応答・であるというように捕らえています。 「霊と真理をもって」という表現は、英語では「IN SPIRIT AND TRUTH」とか「BY SPIRIT AND TRUTH」 という表現になっています。「霊と真理の中での礼拝」です。これが私たちにイエスがしなさいと言う礼拝です。このことばは、サマリアの女性とイエスの会話です。礼拝する場所について、どこでするべきか、という話になっています。「霊と真理の中であれば、礼拝する場所は問わない」ということでしょう。そして、この「霊と真理の中での礼拝」はイエス・キリストと共にと言う意味と捉えることもできるようです。イエス・キリストと共にどこでも、礼拝するときがくる。いまがそのときなのだということでしょう。つまり、十字架に掛かり、私たちの罪を取り除き、復活され、聖霊を私たちに与え、イエスキリストの救いについて悟らせてくださる(ヨハネ6章13節)、主イエスキリストと共に礼拝するということです。そのイエスキリストは、「悲しみが喜びに変わる。それを奪いさるものはいない(ヨハネ16章22節)」といい、「イエスの名によれば何でもかなう(ヨハネ16:23.24)喜びで満たされる(ヨハネ16:24)」と語り、さらに、「平和をイエスから与えるが、弟子たち、あるいは私たちは、現実の生活では苦しみは避けられない。しかし、イエスは平和の勝利者で最終的には平和を得ることができるのだ。(ヨハネ16:33)」のメッセージを受けることができます。 礼拝とはこのようイエスキリストという神の恵みへの応答なのでは応答なのではないのでしょうか。「霊と真理のなかでの礼拝」は、さらに、その応答である礼拝にもイエス・キリストが共にいてくださるということになると思います。 【施設での問題】 ある牧師に聴いたときです。礼拝はどれくらいしたらよいですか。週に1回ですか、2回ですかと聴きました。すると、「礼拝は24時間、365日だよ。」と言われました。教会で時間と場所を決めて聖書や祈り、説教、賛美歌、献金をするだけが礼拝ではなく、私たちの暮らし全てが礼拝であると語ったのです。神の恵みへの応答としての行為、霊と真理の中での行為を礼拝と考えれば、この牧師の語った言葉は理解できます。また、先にあげた施設での問題も、なすべきは、悲しんだり、嘆いたり、怒ったり、犯人を検挙し、排除しようとすることではなく、平和の勝利者イエス・キリストの共にいることを信じ、とにかく、施設のサービス(礼拝)が続けていくようにすることであるのではないかということに、本日の聖書の箇所から気づかされるのです。 【まとめ】 この世の暮らしには、主の十字架の救いの業に気づかされ、その恵みに預かり、神体験をし、感謝の応答の礼拝をしていくときに、さまざまな世のねたみや誤解、理由の分からぬ嫌がらせ、迫害を受けることは聖書に示されていることです。それだけに自分の信仰生活はつらいことも多くあります。しかし、主はそれであっても、私たちに、死を復活に変える、破壊を創造に変える、悲しみが喜びに満たされると、宣言さえています。この恵みに答える礼拝(生活全部を含めての礼拝)をやめるわけにはいきません。わたしたちはこの主イエスの恵みに応答する礼拝をするために生きているのだといっても過言ではないと思います。 お祈りします。