創世記25章27節から34節、ローマ9章1節から18節 すべての人を憐れむ キリスト新聞(2011年10月22日)に掲載されていたのですが、アップル社で携帯電話などを便利にしたSジョブズ氏はこの方は13歳でキリスト教を棄教し、後に仏教徒になったそうですが、2005年、スタンダード大学の卒業式で「死」について語っています。「死を覚悟しておく事でプライドは消え、挫折する事への恐怖はなくなる。死は避けられず、限られた時間の中で自分の心と直感に従って生きるのが大事」、という内容だったそうです。今年10月1日はキリスト教作家椎名麟三の誕生100年にあたるそうで、その椎名麟三の私の聖書物語と言う本で「私は死ぬまで生きるだろう。死ぬまで十分に生きるようにされている自分を知っているからだ。いまの私は、いまあまり十分に生きられるようにされているので、死後のことなんかキリストにまかせてしまったのである。」と語っています。死を自覚した二人のことばは、「いまを十分に生きる」という点で共通していると、キリスト新聞では評されていました。 「メメント・モリ」死を覚えよ、ということばがありますが、人は死を覚悟することで、どんなときでも、腰を据えて物事を着手していくことができるように思います。 本日は聖徒の日記念礼拝ということです。この教会を創られた方々のお写真が飾られています。波多野精一氏より教会が始まったのでしょう。植村牧師や無教会やカールバルト神学を受け継ぐ教会形成をされてまいりましたようです。鈴木三治牧師もこの地方に影響を与えた牧師でした。先人達に敬意を払いたいと思います。と同時にこの方々に共通していることは主イエスキリストの救いを信じ、受け入れたものであり、それぞれの今を十分に生きた方々であろうと、思うのです。信仰者として生きている者、一度は死を意識し、死んでもよしと、腹をくくったことがある方々ではないかと思うのです。「死んでもよい」と思うとき、それこそ、人生の至福の時を経験された方々であると思ったからです。そして、自分の人生をキリストの教会を支えてこられてきた方々です。 本日の聖書の箇所1つめは、創世記25章27節から34節です。イサクの双子のエサウとヤコブですが、それぞれ、個性があった方です。エサウは巧みな狩人で野の人になっていたようですし、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くことを常としていたようです。父親のイサクはエサウを愛したとあります。狩の獲物が好物だったからと聖書にはあります。また、母親のリベカはヤコブを愛したとあります。ある日、エサウがヤコブはエサウから長男の権利を譲ってもらうのですが、エサウがその長男の権利を譲る条件というのが、煮物一食を得るということなのです。それで、エサウは長男の権利をあっさり、ヤコブに譲ってしまうのです。のちのち、エサウは神からの祝福をもヤコブは奪い取られてしまうのです。 2つの生き方 エサウとヤコブここに2つの生き方が紹介されているように思います。 一つは主の祝福とは無関係に、自分の力に頼って生きる生き方で、エサウ型の生き方。これは先ほど英に上げたアップル社のSジョブスの行き方とも考えられますね。もう一つは天幕を中心に生きたヤコブ型の生き方、先ほどの例で言えば、椎名麟三の行き方、神の祝福を得て生きていこうとするいき方です。 職場での譲ってしまった書庫の件。 職場が始まった頃、私は職場に20平米のスペースと鍵付きの書庫をもらいました。この鍵つきの書庫ですが、始めはあまり物が入っていなかった物で、回りの職員が狙っていまして、習字のサークルをする活動のためにその書庫を譲れといってきました。みんなのためになると思いまして譲ってしまいました。しかし、その後、自分の物を置く場所がなくなってしまいまして、特に個人の記録の保管場所がなくなってしまい、自分のロッカーに入れたり、物を置くキャスターを自分で作ったり、大変苦労をしてしまっているのです。あの時、譲らなければ、こんな苦労はしなかったと思ったのです。 書庫を得た人は書庫を使ってそれと共にずーっと活動できたわけです。 わたしは施設から頂いた恵みの書庫を自分の判断で別の人に譲ってしまったのです。 それ故、わたしは書庫なしで、書庫に変わるものを用意して仕事をしていかなければならなくなりました。エサウが長子の権利を譲ったように私も書庫を譲ってしまいました。 「私たちは神から祝福を与えられています。 それを軽んじて他に譲ったり、捨てたりしてしまってはいけません」と本日の聖書は私たちに語っているように受け止めています。祝福、恵みとは、本日の聖書の箇所で言えば、神の子としての身分、栄光(神の臨在、顕現)、契約(父祖達に与えられた約束、命令)、律法、礼拝、約束(メシアによる救済)です。 この恵みを信じ、受け取った者が、信仰者です。そのものどもの集まりが教会です。ヤコブは強引にこの恵みを受け取った人として、創世記に出てくる人物でもありましょう。 先人達も自分の命を主の恵みを受け取り続けて一生を過ごされた方々です。わたし達もヤコブの末裔という自覚を持って先人達の信仰を見習って、一生涯、主の恵み、祝福を受け取り続けて生きたいものです。 さて、神から祝福を受けていくものと、祝福から漏れていくものはどうして生まれるのでしょうか?それが、本日の聖書ローマの信徒への手紙9章1節から18節に書かれています。 イスラエルの選びと題がつけられていますが、パウロがキリストから離れるイスラエルの人々、反キリストの人々を痛み。悲しんで述べているところなのです。 イサクの子エサウのヤコブの例を出して説明しています。 11-13節ですが、 その子供たちがまだ生まれもせず、よい事も、悪い事もしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しなる方によって進められるためでした。 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ラビの伝承)と書いてあるとおりです。 14節には「わたしは自分を憐れもうとするものを憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ」(出33:19)、頑なにされたエジプトのファラオでさえ、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによって私の力を現し、わたしの名を全知に告げ知らせるためである」(出9:16) 結論からいいますとこの選びは、自由な選びによる神の計画が、お召しになる方によって進められるためでした。神の計画の中に神の選びが入っているのです。選ばれない事も神の計画に入っていると解釈できます。神の計画とは何でしょうか?エレミヤ書29章11節に「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と語っています。 聖書からみますと、信仰者は神の子としての身分、神と共におられる栄光、父祖に与えられた祝福の契約、暮らしを質す律法、礼拝、メシアによる救済の約束を祝福として受けつつ生きるものです。また、信仰者ではないものはそのようなことは受け取らず、自らの力で生きる者です。現実の世界にはこの2つの生き方があるということを聖書は語ります。 しかし、その2つの生き方は神の計画を進めるためのものである事、神の力を現し、神の名前を全世界に告げ知らせるためであると言うこと、それが、平和の計画であって、災いの計画ではないこと。希望と将来を与えてくれるものであることを聖書は語っています。 生徒の日、先人達は主の祝福を受けつつ教会を守り、救い主が共にいるということを証しされ、その生を十分に生きた方々で、我々信仰者の尊敬すべき方々です。また、信仰者以外の方々も、神の平和の計画の中に取り入れた方々でもあったと思います。 イエスキリストも十字架にかかり死にました。それによってすべての人に救いの道が開かれました。キリストの十字架は、すべての人を憐れんでくださっている証拠ではないでしょうか。先人達、聖徒の死も私たちに同様のメッセージを伝えてくれているようにわたくしには思います。 お祈りします。