創世記21:9~21、マタイ5:43~48 
平和の共同体の心得―主の恵みはどんな人へも―

ピアノの話:小さいころ、いくら練習しても間違う。泣き叫び、もうだめだと思うと、不思議に次からは大丈夫だったりする。これ今思うと神様が働いたかなと思う。

主の恵みはどんな人へも、と題しましたが、本日の聖書の箇所は、神が、一旦、約束した人ならば、どのような人でも、どのような状況においても、守り通すということが書かれているように読むことができます。
本日の聖書の箇所は、今まで家族として暮していた、ハガルとイシュマエルが、アブラハム家から、捨てられ、存亡の危機にあったときの、話です。
ハガルはエジプトの奴隷女、それをアブラハムの 妾として、アブラハムの妻が向かえ、子どもを作らせ、家族として暮していましたが、平穏な暮らしではありませんでした。ハガルも身ごもったりして、つい、有頂天になってしまい、サラを軽んじたりするような人だったようで、サラから身ごもったままで追い出されたこともありました。神の啓示で戻ってきたのですが、それでも同じ屋根の下で暮していました。

本日の箇所は、そういう中で暮してきたアブラムハム家から断絶していくときの物語です。
10歳くらいのイシュマエルとその母ハガル、イシュマエルはイサクをからかっているのを見た、サラは、「あの女とあの子を追い出してください」と、なんとも、血も涙もないことを言うものだと思いますが、アブラハムに提案します。イシュマエルとイサクが遊んでいたのをみえ、サラは、年上のイシュマエルを警戒したと考える人もいるようです。跡取りの座を奪われるのではないかと思ったらしいのです。アブラハムはここで自分の子どものイシュマエルのことで、悩みます。当然です。実の父親ですから・・・
しかし、神は、驚くべきかな、サラの言うとおりにしなさい、と、アブラハムにいうのです。「あの女の息子もひとつの国民の父とする。彼もあなたのこであるからだ。」と言い加えます。これでアブラハムも少しは心が決まるでしょうけれど、別れは辛いものだったでしょう。しかも、イシュマエルと母ハガルは、ベエルシェバの荒れ野をさ迷うわけです。母親ハガルはどこへ向かうというのでしょう。エジプトでは奴隷でしたし、また、エジプトへ行くわけにはいかないでしょう。帰るところはアブラハムの家しかない。たった一つの居場所をハガルとイシュマエルは奪われてしまったのです。ベエルシェバその辺は、一面茶色い岩場と茶色の乾燥した土の世界で、森とか山がないのです。高山のようなところですね。木も低い木しかなく、磐山の中腹に草が生えているところを羊飼いなどが遊牧しているようなところです。イシュマエルはこの乾燥しきった岩場と土の荒地を歩いていたのでしょう。皮袋の中に入れた水がなくなったときに、ハガルは悟ります。もはやこれまで。無念だが、死を選ぶしかなくなったと決断しました。ハガルは子どもを1本の潅木の下に寝かせ、「わたしは子どもが死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子どものほうを向いて座りこみ、泣きました。子ども声をあげて泣きましたら、神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った、と聖書にあります。
何と言ったか、「ハガルよ、怖れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行ってあのこを抱き上げ、前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」といったとあります。
神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸をみつけました。彼女は行って皮袋に水を満たし、子どもに飲ませました。こうして、一命を取りとめた、ハガルとイシュメル。神がその子と共におられたので、そのこは成長し、荒れ野に住んで弓を射るものとなりました。彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトから迎えました。こうして大きな国の国民となる準備が整っていったことになります。イシュマエルとは、「神は聞いてくださる」という意味のようです。イシュマエルは今のイスラム諸国、アラブ諸国の先祖であると思われています。

このように神は一旦宣言されたことは、必ず、成し遂げてくださる方です。イシュマエルと母ハガルは、瀕死の状態、もう、死しかないというところまで追い込まれていきましたが、そこで、神は、ハガルに声をかけ、目を開かせ、井戸に気づかせてくれまして命を救ってもらいました。意外と困難からの脱出の道、救いとは自分の身の回りにあって、気づいていないことなのかもしれませんね。人の親切とかは割と近い人にあること多いのに気づいてなかったりしますしね。
神の守り、救い、祝福は一旦神側から選ばれたものなら、どんな人へも、どんな状態であっても、命守られ、導かれ、祝福に預かるということが、ここを読んで知らされることです。

神の祝福は全人類に及んでいる。旧約聖書の創世記から、このようなメッセージを受けるものです。
それが前提となると、敵を愛しなさいということを理解しやすくなるわけです。神様は、どんな人をも祝福されようとしている。祝福している。だから、キリスト者は、気の合う友でも合わない敵でも愛するようにするのが筋だ。神がすべて導き、祝福してくださっているのだから。

十字架の赦し、敵を愛する徴
イエスの十字架。これこそ、敵を愛する証拠。どのような人をも受け入れる神の愛の証拠であると思います。人となったイエスが人に対して行った行為が十字架につけられることでした。その張本人がわたしであったのです。にもかかわらず、わたしを見捨てず、復活して、くださり、聖霊を与えて、わたしたちの身体に宿ってくださるという、なんと、畏れ多いお方でありましょう。イエスはすべての人の罪を引き受けたのでした。ですから、イエスを主と信じる私たちは、どんな人とも、争わず、平和に暮せるはずなのです、本当は。
しかし、現実社会では・・・旧約の世界が繰り広げられている。
今でも、アブラハムの家族と同じような問題が起きているではないですか。いざこざが絶えません。嫁姑問題で、わたる世間は鬼ばかりというドラマは長く放映されていますし、海外から嫁を斡旋してお金儲けをする人とか、フリコミ詐欺とか、。人間はどうしてこんなに憎しみ合ったり、ねたみあったり、騙したり、しなければならないのかと悲しくなります。

われは、ただ、主よ、憐れみたまえ、すべての人に対し、愛することができない自分徒、愛されるべき、すべての人への神の祝福を祈る、のみ。

しかし、神がいるところ、神がより働くところとはどういうところかと考えますと、滅び行く問題があるところ、争いや残虐があるところ、罪があるところ、愛が無く、憎しみがあるところ、癒しがないところではないでしょうか?個人的にはその方の一番欠点に髪は現れると思われます。
神は、滅びを創造に変え、争いを平和に、罪を赦される恵みに変え、憎しみを愛に変え、病を癒す方です。
その恵みはどんな人へも与えられるというのが、本日の聖書の箇所から理解できることです。
今、アラブ諸国の民主化のために、長い間不条理な支配から解放を求めてでしょうが、騒動がおきています。アラブ民族の国々が次々と同じような改革をしようとしています。イシュマエルの子孫のことです。主の恵みはアラブの方々の上にも働いていることを覚え、イスラムの方々の上にも、その他の宗教の方々の上にも、もちろん、キリスト者の上にも、主の導きを祈るものです。