創世記21章22節から34節
マタイ15章21~28節
何をなさってもあなたと共に

神様が共にいてくださる。こんな素晴らしいことはないと思います。
先日、3月11日、東北関東大震災で、2万人以上の死者・行方不明者が出、沿岸の町々が壊滅されたようですが、このような非常時にあっても、神が共におり、必ず、死を復活に、破壊を創造に代え、悲しみや苦しみ不安を喜びや感謝、平安に変えてくださることを信じるものです。

アブラハムには何をなさってもあなたと共に神がいる、ということをアビメレクは気づき語りました。対人関係の多い仕事をしていますと、変わった人にときどきあうのですが、あなたに霊がいるのが分かる、とかいう人です。この霊がアブラハムにみたいに神の聖霊だったらどんなにいいだろうなあ、と思います。神が共にいてくださると思うと、わたしは「すべてのことが益」となるという、み言葉に支えられて、ちょっと、ハイテンションになってしまうんですね。よく、解釈してしまう。多少の失敗、絶対絶命、死にたく思う失敗も、まあ、人間誰しも失敗はあるよね。とか、まあ、何かの役に立ったよね、とか、誰かを元気にしたかもね、など、あまりくよくよしなくなりますね。非常にさわやかな落ち着いた状態になります。

アビメレク(ペリシテ人)と共存、お世話になっていく。
この「神は、何をなさってもあなたと共におられます」とアブラハムに語ったのは、アビメレクなんですね。アビメレクはイスラエルの民ではない、ぺリシテの国の王です。あとでゴリアテという巨人の兵士、身長は約2.9メートル、身にまとっていた鎧は5000約57キログラム、槍の鉄の刃は約6.8キロあったという、そういう兵士が出たという国です。かなりの軍事国家だったのではないでしょうか。そういう強国の王から、「神は、何をなさってもあなたと共にあられます」ということを語られました。そして、寄留しているこの国で、アビメレクのまごたちを欺かないで、アビメレク自身がアブラハムに友好的であるように友好的態度を取ってください」とアブラハムに頼むのです、一国の王、しかも、ピコルという部下、軍隊の長でもありますが、そういう部下の前で、仲良くしてください、お互い、平和にやろう、と、ぺリシテ人の王の方からお願いにくるのです。これは考えられないことです。1国の王が寄留者に仲良くしようなんていう必要も何もありません。でも、アブラハムは違いました。なぜでしょうか、財があったからでしょうか?さまざまな能力があったからでしょうか?カリスマ性があったからでしょうか?それらは聖書では何も言ってません。ただ、アビメレクは「神は、何をなさってもアブラハムと共におられます」と思っていたことは聖書の示すとおりです。そう思ったゆえに、平和に暮そうというような提案をアブラハムにしたというように読めるようです。

意外な神様!旧約の世界のエキュメニカル推進派
さらに、アブラハムは、アビメレクの部下たちが、井戸を奪ったことについて、責任とってくれというようなことをいいだします。権力者の不条理な支配を許さない態度を王に示すのです。すると、王はそれを知り、井戸をアブラハムが掘ったことを、認め、7匹の雌の子羊を王に渡し、所有権を強引とも思える方法で、得ています。
アブラハムは長い間ぺリシテの国に寄留した、とあります。
この箇所だけ見ますと、なんと、旧約聖書でも、他宗教の物とも、仲良く、恵みを分かち合って平和に暮していける、ということが書かれているではないですか。現在、やっと、20世紀になって、生じた、エキュメニカル運動という運動(教会一致運動の教理で、異なった宗教の協力と理解を進める:キリスト教の普遍的統一を目指す運動)
が、いろいろな宗教との対話を試み、21世紀になってあまりうまくいかなくなったようですが、この聖書の箇所は、みごとなエキュメニカルをしてみせているところ、で、驚くばかりなのです。違う宗教の人とも、違う宗教の国でも、ヤハゥイの信仰をもち、その素晴らしさを、他宗教の人にも王にも認めさせ、異教の土地でも、神と共に暮せる、という、すごいことが、書かれているんです!

新約では、渋りながら、カナンの娘の悪霊を追い出す、救いを与えるイエス
今日の新約聖書の箇所では、カナン地方の、ユダヤ教ではない、異邦人の女性が、自分の娘が悪霊に苦しめられているのをなんとかして欲しい、とイエスに願います。イエスは忙しかったのでしょうか、「自分は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか使わされてない」とお答えになった。しかし、カナンの女は益々イエスに近づき、主の前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください。」といいました。イエスは、「子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言います。そのことばを聞いてイエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」と語ります。そのとき、娘の病気は癒された、とあります。
この箇所は読み方がいろいろあると思いますが、異邦人でも信仰が立派だと主の恵みが受けられるという解釈。信仰に関係なく、主の恵みは、主の決めたときに、一方的に与えられるという解釈。このときカナンの女が立派な信仰に至ったのではなく、すでに、娘が悪霊に取り付かれているときから、立派な信仰だったと思われるので。そしてこのとき、信仰の立派なはずのイスラエル民族の癒しや奇跡を行う前であったことからも信仰には無関係に、主が癒されたいと思うときに癒し、恵みを与えるということだという解釈。などなどいろいろあるわけです。

主イエスはイスラエルだけではなく、異邦人への恵みも与えられるということです。

神は一神教だが、いろいろな方へも恵みを与える主。
本日の、旧約聖書、新約聖書から考えますと、主はイスラエルにも異邦人にも恵みを与えておられることが、分かります。そして、異邦人からみても、主イエスの存在は素晴らしい、恵みをこの地においても与えてくれるということが知らされるのです。信仰者によってそれがなされるのでしょう。信仰者を通して、イエスの存在、神の存在、信仰者に神がいつも共にいることが、信仰のない人にも伝わっていくということです。これが伝道や宣教というものでしょう。

信仰者は他の宗教者と共存共栄ができるということ。改宗を迫るのも問題が在る。
さて、これらのことを考えますと、主イエスキリストを信じる信仰者は、他の宗教の人たちとも共存共栄が可能であることがわかります。主が信仰者と共にいることを、他宗教の人にも分かってもらえるということは、もう、すでにその人は他宗教のままでも、信仰者と同様の主の恵みに預かっているのではないかと思うわけです。信仰者から改宗を迫ること、これは聖書的でもありません。聖書には「すべての民をイエスの弟子にしなさい、洗礼を施し、弟子に教えておいたことをすべて守るように教えなさい」とあります。改宗を迫らなくとも、弟子となることを迫り、洗礼を迫り、愛し合う暮らしを迫る、こういうことは同じことでありましょう。愛し合う生活をするように迫るならよいと思います。

キリスト者と非キリスト者とが共に生きる場が、むしろ必要なのではないのでしょうか。信仰者は、信仰していない人から、主がいつも共にいてくれているようだと思われるように出来ているのでしょうから。
それが、生活全体をかけた、福音伝道というべきもので、ありましょう。
わたしたちキリスト者は信仰を失わずに、信仰の違う人々と共に生きる時、愛、喜び、平和、寛容、親切、誠実、善意、柔和、節制(ガラテア5勝22節)を、共に生み出すようならば、うまくいっているということになると思います。

この大きな災難にあっては、キリスト教徒も仏教ともイスラムもカルトもそんなことは言ってはいられません。失ったり、傷ついた方々を思いやり、復旧、復興に一致団結していきましょう。

このようなときにでも、「あなたには、どんなことをしても、主が共にいてくれる」そういうように、共に暮らすキリスト教以外の人々に言われるようになりたいものです。