創世記19章29節から38節、コリントⅡ4章1節~15節 キリスト者の意義。多くの人々が豊かに感謝に満ちる キリスト者の意義とは何でしょうか? ときどき自分の信仰のもっている意味を考えさせられます。それは、他者のために生きるという、そういう、人のよいところではないでしょうか。親切な人、弱い人の立場に立とうとしたり、富より愛、敵さえも赦して、他者が生きるために、世話を焼く。意図しようがしまいが、こういう人たちのことをキリスト者というように思います。キリスト者のおかげで滅び行く人類やこの世が平和に保たれているとさえ、思ってもいいのかと思います。 現在、日本近辺のアジア諸国が、物騒ですね。尖閣列島の船の衝突、北朝鮮のピンヨンド攻撃。米韓日も加わっての軍事練習。中国人ノーベル平和賞受賞者劉ギョウハ氏関係者へ授賞式への中国による不参加指示など、火種はたくさんあります。いうときにこそ、敵を許すイエスの教え、敵への復讐は神へゆだねる信仰が、必要になってくるように思います。 大きなことでなくても日頃の小さなことでも、ああ、自分は生かされているとかんじることがあるのではないでしょうか。先日も、勉強会をしているんですが、重い荷物を持ってもらったり、ミスをしたとき、そのことを何気なく言ったら、その人がわたし達も、どんなにそのミスで、心を痛めていることか、とか、聞いて元気になったり、食事介助をしたりしえ、ありがとうといわれて元気をこちらがもらったり、いろいろ日常でもありますね。教会の礼拝に来ていただくなんて、これまた、奇跡で、おかげさまで、礼拝を共に守れる喜びを感じ、これらのこと、主に感謝する次第です。 そういうことで、キリスト者というのは馬鹿を見ることもあるでしょうし、疲れてしまっていることもあるように思います。が、それでも、光り輝くよう命を他者に与え続け、生きているように思います。 本日の聖書では、ロトとその娘たちが救出されますが、この意味を考えますと、一人のキリスト者の存在が、その人自身と、その肉親、関係者を生かすようニ働くということを示しているように思います。それらが、アンモン人やモアブ人という、イスラエル民族とは敵対関係にある民族が、アブラハムという一人の信仰者の存在によって、神から生きる上での守りや支えが与えられてるというようにとらえることができませんでしょうか。 聖書は実ある単一民族のことだけを示した書ではありません。単一民族だけが救われるということが書かれてある書物でもありません。ヤウェーを信じるものだけが救われるというようなことを書かれている書物でもありません。それは、すべてのものの存在に関わる、存在の根源が神であるという事。ないのではなく、あるものを、あるようにする、あってあるもの、それが神というものであることを示しているのだと思います。存在の理由、存在のもと、すべてが神であり、神が存在を創造したのだということだと思います。 ですから、本日の聖書の箇所も、アブラハムというイスラエルの民の一人により、のちのちモアブ人やアンモン人になっていく人々が、神の心に止まり、破滅の中から救いだされていきました。品行方正とはいえないような人をも滅びから救うのです。 今日の聖書の箇所は、今後の暮らしに、行き詰った場合の、神の救いについて描かれています。大変、驚くようなことがかかれています。洞窟で暮らしていかなければならなくなった親子で、ロトの子孫が生き延びていくことが書かれていますが、ここは、イスラエルの民とは違う、アンモン人とかモアブ人とかイスラエル周辺の民族となっていき、イスラエルからは近親相姦によってできた民族だと、忌み嫌われるような人々の物語が書かれています。 ロトの一族はソドムとゴモラという、今で言う、東京の新宿とか渋谷、原宿というような文明文化の華やかな、しかし、自己中心的、富や快楽をを目的としてしかいきていけない、他者への思いやりがない、神の言葉に逆らう、暮らしをするような人々の多くいる地域だったようです。 ソドムとゴモラは亡ぼされてしまいますが、ロトは神がアブラハムに心を留め、ロトを破滅のなかから救い出された(29節)とあります。信仰者アブラハムによって、不信仰なロト一族を破滅の只中から救い出されたということが示されています。 アブラハムは信仰の父といわれています。この信仰によって何が起こるのかを本日の聖書から学ぶことができます。 信仰によって、その人が、破滅から救い出される、ということが起こる。 信じる者は救われる、ということはどういうことか、それは、破滅の只中から、現実的に救われるということです。そして、それは、信仰者が破滅の只中から、実生活上救われるだけではなく、信仰者以外の方々も、破滅の只中から実生活上救われるということです。さらに忌み嫌われているような人々さえ、破滅の只中から現実的に救われていくということです。イエスキリストはそれを私たち全人類に示しました。十字架という破滅的壊滅的人間の行為から、復活という救いの業が起こった!しかも、これは、すべての人々の罪ために、さらに罪を赦し、清めるために、神から良しとされ、ソドムのように滅ぼされないで滅びの中から救い出されるために、主の十字架の業が生じたのです。 聖書からは、信仰による希望が与えられます。信じることによる希望です。それは、壊滅的破滅的状況からの救いがあるということであり、しかも、それは、新約聖書、コリントⅡ4:15節でも読んで頂きましたが、信仰者だけではなく、それ以外の多くの方々にも及び豊かに感謝できる状態になることです。コリント信徒への手紙Ⅱ4章1~2節、「こういうわけで、わたしたちは憐れみを受けた者としておの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で、自分自身をすべての人の良心に委ねます。」と語ています。それを信じてくれない人もいましたが、その方々いついては、3節、4節で、この世の神に、キリストに関する福音の光が見えないように、覆いをかけられてる人であると、語っています。パウロが伝道しても信じてもらえなかった人たちもいたのでしょう。しかし、ここでパウロは信仰者以外の人たちを含めて、語っているのです。イエス・キリストの救い、壊滅的破壊的状態からの救いについて、すべての人を対象に伝えようとしています。 この素晴らしい信仰を守り続け、語り続け、イエスと共にわたしたちの平和を実現していきましょう。