聖書:創世記19章1節~29節 ヨハネの黙示録21章1~4節 
題:滅びの中から救い出す主、讃美歌21:15、532,579

今、坂本龍馬の龍馬伝という番組をやっていますが、坂本龍馬は、日本を「みんなが笑って暮せる国にしたい」と思っていたらしい。しかし、その尽力の結果、暗殺されてしまう。キング牧師は同じテーブルで誰もが食事をすることができる社会、人間関係を築こうとして、自由民権運動を行って、暗殺されてしまいました。障害のある人もない人も働ける人も働けない人も、安心して、喜んで暮せる社会を築こうとすうとき、お金がないということで福祉予算が上がらず、サービスが十分にいきわたらない状態があります。自殺者も3万人以上おり、失業者(完全失業者数340万人)や不適応者等も入れると500万人以上いるのではないかと思います。この世の中決して全ての人が安心して暮せる世の中ではありません。死と隣り合わせん怖さをもった世の中でもあるでしょう。人々はこの恐怖に襲われながら、怯えながら、生きている、余裕のない、ぎりぎりの暮らしをしているのかもしれません。余裕がないと優しくできず、人を責め、攻撃し、焦り、そして、怒り、苦しむ結果になり、やがて、他者へ向けた、感情が、自分を苦しめてしまう、いわば、滅びの道へと、歩んでいくのではないでしょうか。死んでしまいたいといっている人にもよく出会います。これが、人間の信仰なき心、信仰無き姿、なのだと思います。信仰なしでは人は滅びの道を歩むしかないのかもしれません。

本日の聖書の箇所、ソドムとゴモラの滅亡が書かれている箇所です。死海近くの都市で、岩塩も取れたようですし、アスファルトなど鉱石があり、天然資源に恵まれ、文明が当時としては高度に発達していた年であったようです。しかし、この地域には悪習がありまして、男たちが男に対して集団で性的な暴行を加えるということが、このソドムという町の一つの慣わしだったのです。男色を表わす「ソドミー」という言葉が、ここから出てくるのですけれど、アブラハムの甥であるロトは、今、こういう町に住んでいたのです。
このソドムとゴモラ、神が滅ぼさなくとも、滅びが必然的に生じるような町だったようです。それを聖書は神が滅ぼした、という神側の責任としてソドム、ゴモラを取り上げています。聖書を読んでいきますと、エゼキエル書21章などを見ると、殺戮も、戦争も神が引き起こしたことになっています。ヨブ記にいたってはサタンも神から送られることになっています。主はこの世の破壊も創造もその神様の意志の中にあるということを示しているように思います。

ソドムとゴモラとは、堕落した都市といわれます。この滅ぼされた都市は堕落のもたらした結果です。滅びて当然の歩みをした都市です。それを神が行ったとしているのはどうしてでしょうか。神はこの都市を滅ぼそうとしたのでしょうか。いいえ、神は10人この都市に正しいものがいたら滅ぼさない、といったのです。前の章ではそうかかれています。神が滅ぼしたくないと思う都市が滅んだんです。神の教えを守らない結果です。男を襲うような慣わし。本来人間が生きるにはしてはいけない人の命を損なう行為をしていたわけですから、神の意志に反し、滅びてしまいました。神にとって、あってはならないことが起こったのです。

ソドムとゴモラを思うとき、わたしたちは、そういう町には住んではいないことにほっとし、そういう町にしないようにと思っているわけです。しかし、聖書は新約にいたっても、カペルナウムは11章22節に「ソドムより罪が重い」というようなことが書かれていて、今、現在、私たちが暮している世界、国、地域がソドムのようではない、とは、いえないのではないのでしょうか。むしろ、ソドムより堕落した世界や国、地域、そして、私自身を直視し、悔い改めていく必要があるのだと思います。あるいは、ロトの妻が振り向いただけで塩の柱になったことを思うと、本来、滅んでいるはずの世界に、本来滅んでいるはずの自分が、生きている、その奇跡に気づき、他者の罪を赦し、愛し合う暮らしを送っていくだけになっていかなくてはならないようにも思います。

さて、この罪の世が、なぜに、滅んでいないか。神が恐らく、滅ぼしてはいけないと思っているからでしょう。また、イエスが十字架にかかり、滅ぼされる身代わりになったためでしょう。

ここに、イエスのこの世を愛される意志を思います。
ソドムとゴモラ以上の罪の都市であっても、イエスが滅びの身代わりなってくださっているので、滅びない。そのことにわたしたちが気づいたら、堕落にブレーキをかけ、お互い支えあって生きていくように、お互いの罪を赦し合い、愛し合い、生きていこうではなかと思いませんでしょうか。
しかし、それでも。イエスは人間の高慢と堕落の本質をご存知で、愛が冷え、戦争が起こり、天変地異が起こり、この世が滅びる最悪の事態を想定してます。
しかし、そうであっても、神は最終的に天地を滅ぼさず、新天新地を創造してくれるとヨハネの黙示録は語っています。本日聖書の箇所21章4節には、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民になる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐってくださる。もはや、死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」とあります。

このことばに、キリスト者として嘆き、悲しみ、労苦しているものはどれだけ慰めを覚えるでしょうか。わたしたちの主は決して滅びを滅びのままにしてはおかない、滅びの中から救い出す主である、それは、全人類規模の全地球的規模の救いが起こるのだということ、
滅亡の中から救いが起こる、滅亡を動機として、滅亡があるからこそ、神の救いが創造されていくという事を、本日の聖書の箇所から、受け取りことができると思います。

祈ります。